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2018年 01月 31日

気動車発達史 5 戦後の電気式気動車

電気式気動車の試作、再び

戦前試作された、キハ43000はエンジンの振動が大きく、試作品としては成功とは言えず戦後は復旧すること無く浜松工場の職員輸送用として先頭車が使用された他。中間車は電車用サハとして一時期活用されたようですが。結局キハ43000系列は戦後は振り返られることはありませんでした。
キハ43000に使用されたエンジンは、戦後再び縦型に設計変更され、DD13形機関車に搭載されました。
その後改良が進められたDMF31エンジンは500PSとなりました。
さて、その辺の詳細は、弊ブログ、挫折した試作車・・・キハ60 に掲載しておりますので、併せてご覧ください。
戦後は、キハ43000が再び電気式気動車として使われることはありませんでしたが、総括制御するための気動車として戦後再び電気式気動車が投入されることになりました。
そこで誕生するのが、キハ44000でした。
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戦後試作された電気式気動車 キハ44000(第1次試作車)国鉄線から引用
DMH17エンジンで発電機を回して、100KWの発電機を回し、45kwのモーター2個を駆動するもので、昭和27年8月に、2両編成各2の4両が製造(日車及び汽車が製造)され木更津機関支区(当時の名称)に配置され。房総線で活躍したと記録が残っています。
特徴は、当時流行していた、湘南スタイルで側面は3ドア車となっていましたが、試作車2両は側面が湘南電車同様の一枚窓出会ったのに対し、先頭車は心持ちボディを延長したため、間延びした感じを与えました。
その後改良形は、正面マスクが80系に近いものとなりスッキリとしました。
また、3ドアは変わりませんが、後にバス窓気動車と呼ばれる側面窓の車両として11両が製造され、房総地区で主に活躍しました。
九州地区に投入されたグループは、キハ44100(中間車はキハ44200)形と呼ばれ、両端に出入り口を設ける手法はその後キハ45000(キハ17)に引き継がれることになりました。
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キハ44000~キハ44500 側面図 交通技術から引用
比較として設計された液体式

電気式気動車は、その性格上構造が複雑で製造費も高く付くなどの問題があり、並行して液体式気動車の施策が行われました。
液体式についても戦前に完成していた神鋼造機製の液体変速機が鷹取工場に保管(放置?)されていたものが発見されて、これを整備のうえ、エンジンと液体変速機を組み合わせた状態で2か月程試験を行ったところ所定の成績を得られたので、その後、キハ42500形42503(後のキハ07)機械式気動車に取り付けて、関西線で走行試験を行ったそうです。
当初は液体変速機に十分油が充填されないトラブルが発生してエンジンの焼き付きを起こしたそうですが、その後改良が加えられ、再試験では好成績を得られたと記録されています。
その後、車両は川越線に移動し、そこでも試験が続けられた後、昭和28年には、気は44000形と同じ中間ドアを持つキハ44500形が4両試作されました。
ここに至り、液体変速機とDMH17エンジンによる総括制御の目処が立ったことから、その後の気動車は液体式で行くこととなりました。

液体式気動車の最初の量産車 キハ45000

キハ44500で所定の成績を得られたことから、量産型と言うべきキハ45000形が計画されることとなりました、キハ45000の特徴はキハ44100の外観にキハ44500の足回りを組み合わせたような形であり、分割併合を考慮して貫通型に変更されることとなりました。
形式としてはキハ45000(後のキハ17)、キハ46000(後のキハ18)が最初に製造されました、その後便所を省略したキハ44500(キハ16)やキロハ47000(キロハ18)形が製造されました。
最終的には、ローカル線での輸送単位を考えると運転台無しの中間車は、特急形以外は製造されることは無く、キロハ47000は全車、キニ15に改造されたほか、キハ46000もキハニ15形に改造されるなどして運転台無中間車は普通気動車では消滅することになりました。

電気式の中間車などについては省略させていただいている部分がありますが、その辺は今後機会を見つけておい話をしたいと思います。

続く

併せて、こちらもご覧ください。

気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話





第2回プラチナブロガーコンテスト



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by blackcat_kat | 2018-01-31 22:56 | 気動車
2018年 01月 28日

気動車発達史 4 天然ガス動車

戦後のあだ花 天然ガス動車

本日も気動車史をご覧いただこうと思います。
今回は、戦後のわずかの間だけ活躍した天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。天然ガス動車自体が活躍期間も短かったこともあり、あまり資料も探せなかったのですが、できるだけ技術的な話を中心にまとめさせていただこうと思います。

天然ガス動車が誕生した理由
その前に、天然ガス動車なるものがどうして運転されることになったのかを知っていただこうと思います。
気動車が自動車と同様に、石油で走ることは皆さんよくご存じだと思いますが、日本にあっては、日華事変以降石油は統制品となり自由に民政レベルでは使えなくなりました。
当時も日本は石油の92%を輸入に頼っており、その81%が実にアメリカからの輸入であったと言われています。
そして、アメリカは昭和16(1941)年6月には、米国、石油全般の輸出許可制実施(第1次石油禁輸)を実施、さらに同年8月には更に制裁を強化して、(第2次石油禁輸,対日輸出全面停止)として、全面的に石油が入ってこなくなる自体となりました。
そうなってくると、使えるのは備蓄した石油だけとなり、2年分がやっとであり、本格的な戦争状態になれば半年や1年で使い切ってしまうだけの備蓄量しか無い状態に置かれたと言われています。
それにより日本は蘭印の石油を求めて蘭印へ石油を求めることとなるのですが、こうした行為が更にアメリカの圧力を強めることとなるのですが、こうした一連の流れはアメリカを含む欧米のパワーバランスに日本が乗せられたという側面もありますし、アメリカとしても新たな権益として中国大陸を欲していたことに対する日本が目障りであったのでは無いかという仮説も立てられますが、私自身は鉄道史以外は詳しくないので、この辺にさせていただきますが、違った視点から考えることもトキには重要では無いかと思っております。
さて、こうした一連の流れの中で皆さんもよくご存じの通り、昭和16(1941)年12月8日には大日本帝国は戦争に突入していくこととなり、昭和20(1945)年8月15日、無条件降伏を受け入れて戦争は終結に至るのですが、戦争終結=石油禁輸解禁とは当然のことながらならずでした。
ただ、いつ頃から石油事情が好転したのかは判らないのですが、昭和23(1948)年には、GHQ、ジョンストン報告により石油精製装置スクラップを撤回とありますし、昭和24(1949)年には、東亜燃料工業、スタンダード・バキューム石油(後のEsso)と資本提携契約締結していますのが、天然ガス動車が国鉄で運転を始めたのは、昭和24年からでした。
結果的に昭和27年(1952)に石油の統制は解除され、天然ガス動車は再びディゼルカーに再改造されることとなり、活躍期間は非常に短く、実際に天然ガス動車が活躍したのは4年ほどでした、

天然ガス動車は千葉と新潟だけで運転された。
天然ガス動車は、千葉と新潟地域だけで運転されました、その理由はいずれの地域も天然ガス田があり、自給できることが大きかったと言われています。
古い資料を参照しますと、最初にガス動車が運転されたのが、昭和16年5月に木原線で運転開始されたのが最初だそうです。
戦後は、昭和22年3月10日から木原線で再び運転開始されたと記録されています。

天然ガス動車の実力はいかに?
実際には、天然ガスはガソリンやディーゼルエンジンと比較すると出力も低く(概ね70%から80%)であり、かつ、当初はガスボンベを床下に搭載する方式であったためかなり非効率であったことは容易に判断できます。
それでも、輸送力増強の要望もあったことから、昭和25年(
1950)4月に新小岩工場で9両のキハ42000形が改造されたのを皮切りに、千葉県内では、久留里線、房総東線、房総西線、木原線、東金線で、同様に天然ガスを産出した新潟近郊の越後線、弥彦線、信越本線(新津~新潟、直江津~新井)、磐越西線(馬下~新津)にも投入され、長野工場でも11両が改造された。同年10月には、千葉地区用に2両が増備されて、計22両が天然ガス動車が誕生しました。

天然ガス動車は、ガスボンベを床下に積む方式であり、木原線で使用されたキハ41000では20本のボンベを搭載し、1本のボンベで走行できる距離は10km~12km程ですので、200km~240km程度しか走れず、4往復程度するとボンベを積み換える必要があったようです。
キハ42000形の場合は、ボンベの数は24本搭載しており、ガスの価格が高く非常に不経済であったと言われています。
その後、200気圧の親ボンベから充填してもらう方式に変更され、更にその後は専用線を設けて直接ガス供給業者から直接供給してもらう方式に変更されたとされています。
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交通技術昭和25年6月号から引用

そんな、天然ガス気動車ですが、石油事情も好転したことから、昭和26年からはガソリン動車より経済的なディーゼルエンジン搭載の気動車のみが新製されることとなりました。
なお、昭和25年度にキハ41000形から11両、キハ42000形から7両がガソリン動車から
ディーゼル動車に改造されています。

当時の資料記事から
なお、天然ガス動車、ディーゼル動車の経済比較などをまとめた表が同じく、
交通技術昭和26年1月の号に掲載されていましたので、併せてこちらでアップさせていただきます。
ディーゼル動車として使われたエンジンは、日野DA55形エンジンであり、出力は75PSで、天然ガス動車と同じ出力であり、力不足は否めませんでした。
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その後、DMF13に換装した車両や、換装されなかった気動車は、DA55形エンジンを出力強化改造したDA58形エンジンを搭載した車両が登場し、形式もキハ41500→キハ41400に改番(出力75PS→100PS)される車両が誕生したとされています。

続く

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国鉄があった時代 JNR-era
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by blackcat_kat | 2018-01-28 22:39 | 気動車
2017年 10月 27日

EF66形機関車について 第3話

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暫定的措置として

機関車としては、完全に新設計となるため、41年の特急貨物には間に合わないことから先にも記しましたが、前年から製造を開
始していた EF65形機関車を重連で使用することとしました。
具体的には、下記の装備を取り付けることにしました。
高速貨物用貨車牽引用の設備として
  1. 重連総括制御機能
  2. 空気管付き密着自動連結器
  3. 連結器の自動復心装置
  4. 編成増圧装置
  5. 電磁自動空気ブレーキへの指令機能
の装備を追加した、EF65-500番台(513 - 526・532 - 534) を製造するといことでした。
これにより、高速貨物輸送の体制は整いましたが、1000t 貨物にはこの重連運転は、逆に過剰出力となり、貨物編成長の問題や、変電所ピーク電流の増加(5000A)に伴う、電圧降下などの問題が指摘され。重連運用は東海道線全線と山陽本線姫路以東に限定されました。
(それ以外の区間では、EF65単機とし600t牽引)


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by blackcat_kat | 2017-10-27 05:39 | 電気機関車
2017年 08月 12日

DF50形電気式機関車の話

現在機関車を新規に製造し保有しているのは、JR貨物だけであり、ディーゼル機関車もDD51の老朽化のためDF200形が新規に製造されています。
DF200形は電気式と呼ばれる方式で、従来の液体式と比べると重い機関車で実質的な通貨トン数が増えてJR北海道にしてみれば線路破壊量がDD51よりも大きくなって保守費が増大していると言った話も聞いたことがあります。
さて、JR貨物が電気式を採用する背景として考えられるのは、機関車の部品共用化が大きいのかなと考えております。
今後本格的な人口減などを考慮していく必要がある中で鉄道会社が出した答えだと思います。
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さて、今回はDF200などの新型の電気式機関車の話ではなく、今から半世紀以上前に製造されたDF50形電気機関車のお話をさせていただこうと思います。
DF50形機関車誕生
DF50形機関車は、北陸本線に投入されたDD50形の改良版として計画され,、昭和32年に試作車が、その後非電化区間の無煙化のエースとして昭和38年までに138両が増備されました。
機関出力1060PS(MAN型(500番台)は1200PS)であり、機関車の出力としては決して大きなものではありませんでしたが、高速性能ではC57相当、牽引力ではD51相当と言われていました。
DF50形設計当時は、高出力の液体変速機が開発されていなかったため、電気式が採用されました。
ただ、最近のDF200形のようなVVVF方式ではなく、発電機で発電した電力をそのままモーターに流してしまうという方式であり、Wikipediaを参照しますと、「「差動界磁付励磁機式発電機」が用いられた。これによって、主電動機に負荷がかかって回路電流が増大すると、自動的に発電機の界磁が弱まり、発電電圧が低下して、定出力特性が得られた。
と書かれております、そこで「差動界磁」と何かを調べていきますと、参考になるサイトがありましたので、そこから少し引用させていただこうと思います。

このサイトの中で書かれている、頭を説明のために引用させていただきますと
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差動複巻直流電動機というのは、磁束(磁力の強さ)を打ち消しあうもので最近では殆ど使われない技術だそうです。
その原因としては、回転速度が不安定になりやすく,始動トルクも弱いからという理由だそうで、逆にいえば、自動的にそうなってくれる方が発電機側としては都合が良いということになるのかもしれません。
余談ですが、磁束が補完しあうように働く場合は「和動複巻」というそうです。

ということで、難しい説明はこの程度としておき、実際の運転ではDF50形機関車は、電車などでよく使われる弱め界磁が多用され、最高30%まで弱める(界磁とは直流モーターの場合外側の磁石と思えば理解しやすいでしょう。)ことが出来たそうで、定格速度17km/hでしたが、旅客車などでは90㎞/h近くまで出せたようです。
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今から考えれば、蒸気機関車よりも加速は早かったとはいえ、電車などと比べると緩慢な速度でありやはり時代を感じてしまいますね。
今回は、正直私自身も色々と改めて勉強したのですが、まだまだ勉強不足だなぁという思いを新たにしましたのでさらに精進を重ねていく所存でございます。
間違い等があればご指摘いただければ幸いです。



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by blackcat_kat | 2017-08-12 10:16 | ディゼル機関車
2017年 05月 20日

ワンハンドルマスコンのお話 手前?それとも押し込むの?

久々に投稿させていただこうと思います。
電車では最近、ワンハンドルマスコンも増えています。
画像は阪急の9300系ですが、このワンハンドルマスコンを本格的に採用したのは1969年に誕生した東急8000系電車が最初と言えそうです。
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撮影 blackcat

このワンハンドル式の歴史は古く、1930年代には既に開発され、遅くとも1940年後半までにはニューヨーク、シカゴ、ボストン市などの地下鉄および高架鉄道等で、ワンハンドルが採用(現在の横型とは異なり縦形だったそうです。

ワンハンドル式は日本だけでなく国外でも採用されているのですが、ヨーロッパやアメリカではその操作方法に相違があるそうです。

それは、ブレーキをかけるときに馬の手綱を引く要領で手前に引くのか、それとも現在日本で採用されているように、前のめりに押すのかということです。
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画像 Wikipwdia

日本でも東急が8000系に採用する際にはその辺で賛否両論あったそうで、当時の運輸省の見解としてはどちらでもよいが一度決たらめ安全面の問題であるから変えてはならないと言われたそうで、最終的には手前で力行(加速)押すと減速(最大まで押し込むと非常ブレーキ)がかかる仕組みに決定されました。
これはワンハンドル式に限らず、横軸式の制御装置では統一された方式となっています。
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画像 Wikipwdia

なお、ワンハンドル式ではありませんが、横軸式としては昭和41年に試作されたキハ90が最初であり、右側がブレーキ、左側がマスコンとなっており、当時は国鉄の研究所の一つであった鉄道労働科学研究所にて研究が進められており、人間工学的観点から失神した場合などは前のめりになることからブレーキレバーを前に倒すようにしておくことが提言されたようで、キハ91、キハ181、その後試作されたクモハ591も同様の運転台でした、量産型の381系では従来の方式に変更になりましたが。)
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逆に、馬車鉄道から発展したヨーロッパ等の鉄道では、ワンハンドル式のマスコンは手前に引いてブレーキ、押して加速が一般的であり日本と全く異なっています。

近年はJRで廃車になった車両が発展途上国等に譲渡される場合が多いのですが、ここで電車の制御方式が異なる。(真逆)ということで、戸惑が有ったようです。
ただ、譲渡先のインドネシアでも日本式の方が理にかなっていると言われているそうです。

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by blackcat_kat | 2017-05-20 11:19 | 電車