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2018年 02月 08日

気動車発達史 7 高出力機関気動車の試作

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キハ44600の試作と失敗
キハ44600(キハ50)形は、昭和29(1954)年に2両が試作されました。定員134人(座席92人、立席42人)でDMH17エンジンを初めて2台積んだ気動車でした。(当時の資料、交通技術。昭和30年1月号による)
このような気動車が誕生した背景には、DMH17系エンジンの出力不足がありました。
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キハ44600試作することになった理由を述べた交通技術の記事
25‰勾配で25km/hしか出せないが、キハ44600では45km/hまで向上できると記されています。
また、将来的には準急列車用にも発展できるよう考えたいと記されているのは興味深い内容です。

160PSのエンジン1台では、平坦線こそ蒸気機関車牽引の車両よりも高速で走れるものの勾配に入ると一気にスピードが低下してしまうことから、勾配線区への投入などが難しいと言う事情がありました。
そこで、抜本的な改善を図るために、下記のような方法が考えられました。
  1. 現行機関の部分改造による(180 PS化)
  2. 過給機を取付ける(200PS化)
  3. 1車に2機関を積む(160PS×2台)
  4. 別途大出力機関を新設計(370PS)→キハ60試作車
の4方式が考えられたそうです。
1)に関しては、プランジャーと言う装置(噴射ポンプ付近に設けられる装置のようですが詳細はご存じの方おられましたらご教示ください)の直径を8mmから9mmに変更することで160PS→180PSに変更したもので、東北線・日光線で使用され良好の成績を得たとされています。
その後の気動車のDMH17エンジンの出力は180PSとなりました。
2)に関しては、過給器を付けて出力の増大を図ったもので、200PS以上の出力を狙って試験が続けられましたが、半年間日光線で使用したところその成績は芳しくなかったと記録されています。
なお、その辺の事情はマラ別の機会にアップさせていただきます。
4)別途大出力機関を新設計するという方針は、昭和31(1956)年時点では設計中とされていましたが、結果的には失敗することになります。
概要としては、キハ43000系気動車で試用されたエンジン(当時はDD13に搭載されて使用されていた)を再び設計変更と出力を下げて370PSとした機関を搭載するというものでした。
結果的には、当時の技術では変速機とエンジンのスムーズな連携ができなかったり、潤滑が上手くいか無いという問題が多発(この問題はキハ81で繰り返されるのです)して、試用後キロ60は昭和37年にDMH17エンジンに、キハ60も昭和40年にはDMH17に換装されています。
http://blackcatk.exblog.jp/237662473/
もご覧ください。
結局、3案である、DMH17エンジンを2台搭載することが、当時としては時間的な制約があり、より最適な解であると考えていたようで、新機関による気動車に期待していたように見受けられます。
そこでキハ44500をベースに、2台エンジン車として製作されたのが、キハ44600でした。
この車両は、2台のエンジンを搭載するために車体長は22m、台車中心間(ホイルベース)は15,700mmという長大なものとなりました。
完成後は、早速関西線に投入され試験に供されましたが、試運転中にある問題が発生しました、それは、分岐器の通過時にポイントが途中で転換しないようにする保安装置((Detector Bar)と呼ばれるメカニカルストッパーを跨いでしまうタイミングがあることが判明したのでした。
走行に関しては、何ら問題が無かったため、保安装置の改修(バーの延長)を施すことで対処することとなりましたが、製造はこの試作2両でとどまることになりました。

キハ44700による量産型誕生
その後、キハ44600形の経験を活かして、車体長を再び20m(正確には20.6m)に抑えた気動車が製作されることとなりました。
この気動車に関しては、プロペラシャフトの短縮、ラジエーターの小型化などの措置が行わた結果、車体長を短くすることが出来たそうで、これにより使用線区の制約も無くなりました。
早速、関西線に投入されることになり、後述するように関西線における準急列車をすべて気動車に置き換えることになります。
キハ44700と準急気動車の誕生
黄は44600が関西線に投入された背景には、やはり近鉄の存在が大きかったと思われます。
まだ、当時は近鉄は大阪線が広軌(標準軌)、名古屋線が狭軌で、中川乗り換えを強いられていました事も関係していたと思われます。
キハ44600により準急気動車が昭和30(1955)年3月22日から準急気動車が1往復誕生しています。(キハ51+キハ17の組合せでした)
キハ44700(後の51)は翌年にかけて20両が製作されることになりました。
その後は後述するように、車体を10系客車の手法を取り入れたキハ44800(キハ55)に譲ることとなり、全国準急列車網を構築するための礎となっていきました。
明日は、「キハ44800の開発と発展」ということでお話をさせていただく予定です。
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# by blackcat_kat | 2018-02-08 09:42 | 気動車
2018年 02月 04日

気動車発達史 6 10系気動車の始祖 キハ17系気動車を中心にしたお話

本日は、液体式気動車の決定版となった、キハ45000(後のキハ17)についてお話をさせていただこうと思います。
キハ45000形は、分割併合も考慮した貫通スタイルとして、キハ44500をベースにした車両ですが、側面は電気式のキハ44100と同様の両端にドアがある構造になっていました。
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キハ45000(キハ17形)

キハ45000系について少しだけ解説を加えてみようと思います。
車体幅は、キハ44000に準じた2600mm幅で車体長は20m、内装も概ね準じたもので、白熱灯が2列で昔の客車と比べれば明るいとはいえ、かなり薄暗い車内でした。
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昭和28年製増の車両、背ずりが低く大人だと頭が触れあうレベル
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不評だったので背ずりを高くして、頭が触れあわないようにした、昭和29年から増備の改良型、
背ずりを高くした代わりに肘掛けが省略されました。

また、車体は軽量化のためシートも背ずりが低かったようです。昭和29年度増備の車両からは、背ずりが高くなりましたが、肘掛けを省略など、引き続き軽量化を意識した車両となりました。
100年の国鉄車両に当時の車両の内部写真がありましたので引用させていただきます。

また、キハ45000系列の車両としては下記のようにいくつかの車両が製造されました。
  • 片運転台 キハ45000(トイレあり)後のキハ17
  • 片運転台 キハ45500(トイレなし)後のキハ16
  • 運転台無 キハ46000(トイレなし・運転台なし)後のキハ18
  • 運転台無 キロハ47000(トイレあり・運転台なし)後のキロハ18 トイレは優等車側
  • 両運転台 キハ48000(トイレあり)後のキハ11
  • 両運転台 キハ48100(トイレなし)後のキハ11
  • 両運転台 キハ48200(トイレあり)後のキハ12(初の北海道向け)
  • 片運転台 キハ44600(トイレあり 2エンジン)後のキハ50
  • 片運転台 キハ44700(トイレあり 2エンジン)後のキハ51

注:キハ44600は、車体長が長すぎて転轍機の保護装置に抵触するため使用線区を限定去れ、増備も2両だけで終わりました。
なお、1両は新潟地震の際に陸橋の下敷きとなって大破し解体されました。


キハ45000は、増備が進むにつれて編成で運用されることが多くなり、運転台を省略して中間車を作ろうということで、キハ46000形(後のキハ18)が45000形の増備と平行して製作されることになりました。
この車両の特徴は、キハ45000から便所と運転台を撤去したもので、定員が8名増となりました。

また、翌年昭和29(1954)年には地方線区でも優等車の必要があるということで、2・3等合造車のキロハ47000(後のキロハ18)形が5両製造されています。
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キロハ47000
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キロハ47000の車内

なお、wikipediaを参照しますと、「千葉県庁と千葉市役所から「気動車にも二等車を連結されたい」という強い圧力があり、やむなくこれに対処したものであるという」等の記述がありました、手元にそれを証明する資料がないのでそのまま掲載させていただきます、以下は導入された経緯に関する私的な推測ですが、出張に際して、経費の関係で連結を要望したものであろうと思われます。(公務員の旅費規程では部長級以上は、優等車の連結された列車が1本でもあれば、優等車両の運賃で旅費が計算されたため)実際に千葉県庁なり市役所の部長級が実際に利用したかもしれませんが・・・。規程を生かすための方策であったのではないかと推測されます。急行砂丘に半室グリーンが連結されていたのも同様の理由からだ考えます。)
さらに、昭和31(1956)年には2両増備されており、こちらは「準急かすが」に連結するためのものであり、キハ51を両端に連結して準急色を纏った統一された編成で湊町から名古屋間を近鉄特急に対抗するように走っておりました。

キロハ47000形の2等車部分は、当時の並ロと呼ばれた向かい合わせ式の車両で少し高めの背ずりと肘掛けが付く車両でした。

次回は、キハ44600についてもう少し掘り下げてお話をさせていただこうと思います。

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# by blackcat_kat | 2018-02-04 14:19 | 気動車
2018年 01月 31日

気動車発達史 5 戦後の電気式気動車

電気式気動車の試作、再び

戦前試作された、キハ43000はエンジンの振動が大きく、試作品としては成功とは言えず戦後は復旧すること無く浜松工場の職員輸送用として先頭車が使用された他。中間車は電車用サハとして一時期活用されたようですが。結局キハ43000系列は戦後は振り返られることはありませんでした。
キハ43000に使用されたエンジンは、戦後再び縦型に設計変更され、DD13形機関車に搭載されました。
その後改良が進められたDMF31エンジンは500PSとなりました。
さて、その辺の詳細は、弊ブログ、挫折した試作車・・・キハ60 に掲載しておりますので、併せてご覧ください。
戦後は、キハ43000が再び電気式気動車として使われることはありませんでしたが、総括制御するための気動車として戦後再び電気式気動車が投入されることになりました。
そこで誕生するのが、キハ44000でした。
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戦後試作された電気式気動車 キハ44000(第1次試作車)国鉄線から引用
DMH17エンジンで発電機を回して、100KWの発電機を回し、45kwのモーター2個を駆動するもので、昭和27年8月に、2両編成各2の4両が製造(日車及び汽車が製造)され木更津機関支区(当時の名称)に配置され。房総線で活躍したと記録が残っています。
特徴は、当時流行していた、湘南スタイルで側面は3ドア車となっていましたが、試作車2両は側面が湘南電車同様の一枚窓出会ったのに対し、先頭車は心持ちボディを延長したため、間延びした感じを与えました。
その後改良形は、正面マスクが80系に近いものとなりスッキリとしました。
また、3ドアは変わりませんが、後にバス窓気動車と呼ばれる側面窓の車両として11両が製造され、房総地区で主に活躍しました。
九州地区に投入されたグループは、キハ44100(中間車はキハ44200)形と呼ばれ、両端に出入り口を設ける手法はその後キハ45000(キハ17)に引き継がれることになりました。
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キハ44000~キハ44500 側面図 交通技術から引用
比較として設計された液体式

電気式気動車は、その性格上構造が複雑で製造費も高く付くなどの問題があり、並行して液体式気動車の施策が行われました。
液体式についても戦前に完成していた神鋼造機製の液体変速機が鷹取工場に保管(放置?)されていたものが発見されて、これを整備のうえ、エンジンと液体変速機を組み合わせた状態で2か月程試験を行ったところ所定の成績を得られたので、その後、キハ42500形42503(後のキハ07)機械式気動車に取り付けて、関西線で走行試験を行ったそうです。
当初は液体変速機に十分油が充填されないトラブルが発生してエンジンの焼き付きを起こしたそうですが、その後改良が加えられ、再試験では好成績を得られたと記録されています。
その後、車両は川越線に移動し、そこでも試験が続けられた後、昭和28年には、気は44000形と同じ中間ドアを持つキハ44500形が4両試作されました。
ここに至り、液体変速機とDMH17エンジンによる総括制御の目処が立ったことから、その後の気動車は液体式で行くこととなりました。

液体式気動車の最初の量産車 キハ45000

キハ44500で所定の成績を得られたことから、量産型と言うべきキハ45000形が計画されることとなりました、キハ45000の特徴はキハ44100の外観にキハ44500の足回りを組み合わせたような形であり、分割併合を考慮して貫通型に変更されることとなりました。
形式としてはキハ45000(後のキハ17)、キハ46000(後のキハ18)が最初に製造されました、その後便所を省略したキハ44500(キハ16)やキロハ47000(キロハ18)形が製造されました。
最終的には、ローカル線での輸送単位を考えると運転台無しの中間車は、特急形以外は製造されることは無く、キロハ47000は全車、キニ15に改造されたほか、キハ46000もキハニ15形に改造されるなどして運転台無中間車は普通気動車では消滅することになりました。

電気式の中間車などについては省略させていただいている部分がありますが、その辺は今後機会を見つけておい話をしたいと思います。

続く

併せて、こちらもご覧ください。

気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話





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# by blackcat_kat | 2018-01-31 22:56 | 気動車
2018年 01月 28日

気動車発達史 4 天然ガス動車

戦後のあだ花 天然ガス動車

本日も気動車史をご覧いただこうと思います。
今回は、戦後のわずかの間だけ活躍した天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。天然ガス動車自体が活躍期間も短かったこともあり、あまり資料も探せなかったのですが、できるだけ技術的な話を中心にまとめさせていただこうと思います。

天然ガス動車が誕生した理由
その前に、天然ガス動車なるものがどうして運転されることになったのかを知っていただこうと思います。
気動車が自動車と同様に、石油で走ることは皆さんよくご存じだと思いますが、日本にあっては、日華事変以降石油は統制品となり自由に民政レベルでは使えなくなりました。
当時も日本は石油の92%を輸入に頼っており、その81%が実にアメリカからの輸入であったと言われています。
そして、アメリカは昭和16(1941)年6月には、米国、石油全般の輸出許可制実施(第1次石油禁輸)を実施、さらに同年8月には更に制裁を強化して、(第2次石油禁輸,対日輸出全面停止)として、全面的に石油が入ってこなくなる自体となりました。
そうなってくると、使えるのは備蓄した石油だけとなり、2年分がやっとであり、本格的な戦争状態になれば半年や1年で使い切ってしまうだけの備蓄量しか無い状態に置かれたと言われています。
それにより日本は蘭印の石油を求めて蘭印へ石油を求めることとなるのですが、こうした行為が更にアメリカの圧力を強めることとなるのですが、こうした一連の流れはアメリカを含む欧米のパワーバランスに日本が乗せられたという側面もありますし、アメリカとしても新たな権益として中国大陸を欲していたことに対する日本が目障りであったのでは無いかという仮説も立てられますが、私自身は鉄道史以外は詳しくないので、この辺にさせていただきますが、違った視点から考えることもトキには重要では無いかと思っております。
さて、こうした一連の流れの中で皆さんもよくご存じの通り、昭和16(1941)年12月8日には大日本帝国は戦争に突入していくこととなり、昭和20(1945)年8月15日、無条件降伏を受け入れて戦争は終結に至るのですが、戦争終結=石油禁輸解禁とは当然のことながらならずでした。
ただ、いつ頃から石油事情が好転したのかは判らないのですが、昭和23(1948)年には、GHQ、ジョンストン報告により石油精製装置スクラップを撤回とありますし、昭和24(1949)年には、東亜燃料工業、スタンダード・バキューム石油(後のEsso)と資本提携契約締結していますのが、天然ガス動車が国鉄で運転を始めたのは、昭和24年からでした。
結果的に昭和27年(1952)に石油の統制は解除され、天然ガス動車は再びディゼルカーに再改造されることとなり、活躍期間は非常に短く、実際に天然ガス動車が活躍したのは4年ほどでした、

天然ガス動車は千葉と新潟だけで運転された。
天然ガス動車は、千葉と新潟地域だけで運転されました、その理由はいずれの地域も天然ガス田があり、自給できることが大きかったと言われています。
古い資料を参照しますと、最初にガス動車が運転されたのが、昭和16年5月に木原線で運転開始されたのが最初だそうです。
戦後は、昭和22年3月10日から木原線で再び運転開始されたと記録されています。

天然ガス動車の実力はいかに?
実際には、天然ガスはガソリンやディーゼルエンジンと比較すると出力も低く(概ね70%から80%)であり、かつ、当初はガスボンベを床下に搭載する方式であったためかなり非効率であったことは容易に判断できます。
それでも、輸送力増強の要望もあったことから、昭和25年(
1950)4月に新小岩工場で9両のキハ42000形が改造されたのを皮切りに、千葉県内では、久留里線、房総東線、房総西線、木原線、東金線で、同様に天然ガスを産出した新潟近郊の越後線、弥彦線、信越本線(新津~新潟、直江津~新井)、磐越西線(馬下~新津)にも投入され、長野工場でも11両が改造された。同年10月には、千葉地区用に2両が増備されて、計22両が天然ガス動車が誕生しました。

天然ガス動車は、ガスボンベを床下に積む方式であり、木原線で使用されたキハ41000では20本のボンベを搭載し、1本のボンベで走行できる距離は10km~12km程ですので、200km~240km程度しか走れず、4往復程度するとボンベを積み換える必要があったようです。
キハ42000形の場合は、ボンベの数は24本搭載しており、ガスの価格が高く非常に不経済であったと言われています。
その後、200気圧の親ボンベから充填してもらう方式に変更され、更にその後は専用線を設けて直接ガス供給業者から直接供給してもらう方式に変更されたとされています。
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交通技術昭和25年6月号から引用

そんな、天然ガス気動車ですが、石油事情も好転したことから、昭和26年からはガソリン動車より経済的なディーゼルエンジン搭載の気動車のみが新製されることとなりました。
なお、昭和25年度にキハ41000形から11両、キハ42000形から7両がガソリン動車から
ディーゼル動車に改造されています。

当時の資料記事から
なお、天然ガス動車、ディーゼル動車の経済比較などをまとめた表が同じく、
交通技術昭和26年1月の号に掲載されていましたので、併せてこちらでアップさせていただきます。
ディーゼル動車として使われたエンジンは、日野DA55形エンジンであり、出力は75PSで、天然ガス動車と同じ出力であり、力不足は否めませんでした。
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その後、DMF13に換装した車両や、換装されなかった気動車は、DA55形エンジンを出力強化改造したDA58形エンジンを搭載した車両が登場し、形式もキハ41500→キハ41400に改番(出力75PS→100PS)される車両が誕生したとされています。

続く

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# by blackcat_kat | 2018-01-28 22:39 | 気動車
2018年 01月 22日

気動車発達史 3 戦前の電気式気動車

キハ43000その後
キハ43000は、完成後試験に供されたようですが、自動車の水平対向エンジンでも弱点として指摘されている、「水平シリンダー配置の場合には、シリンダー内面の不均一な潤滑油膜による偏摩耗など、潤滑に起因する問題」が発生し、当時の技術力では十分にカバーできなかった部分もあったようです。 【前述】
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基本的には、キハ43000形についてもう少し書いてみますと。
3両固定編成で、両端先頭車が動力車 20m車体で、エンジン出力は、240PS(1300r.p.m)でした。
中間付随車 17mと、車体長が異なっていました。
出入り口は、前後2カ所にあり、キハ17などと同様に客車に近いレイアウトであり、先頭車の運転台後ろの出入り口が片引戸に対し車端部の扉は内開戸でデッキ付と変わった構成となっていました。【中間車は、両端とも内開き戸でした】
なお、蒸気暖房が採用され、付随車に専用ボイラーが搭載されていたそうです。
さらに、車両間は密着連結器が採用されて板と記述されています。
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キハ43000編成写真 鉄道ジャーナル1974-7月号記事から引用
元画像は、国鉄提供

試用を開始した昭和12(1937)年は日華事変が始まった年であり、6月9日に商工省局として鉱山局から分割、当初は石油業法の運営を掌どり、第1部の油政課は石油業の統制等を行ったと記録されており【第2部は人造石油などの製造】、昭和18(1943)年中には休車となってしまいました。
その後、浜松工場で保管されていたようですが、空襲で被災、戦後は復活することなく、昭和23年には廃車となっています。
中間車は一時期、飯田線で付随車として、活躍したとされています。

明日は、戦後の内燃機関事情として、天然ガス動車のお話をさせていただきます。


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# by blackcat_kat | 2018-01-22 22:50 | 気動車
2018年 01月 18日

気動車発達史 2 戦前の機械式気動車 三態

戦前の機械式気動車 三態 

昨日も書きましたが、電気式気動車は重量が重く、日本の鉄道には不向きであり、国鉄としては、ローカル線用としてキハ41000やキハ42000を製造していきました、ただ、機械式の最大の欠点は重連運転が出来ない事でした。
重連運転をしようと思えば、前後の車両に運転士が乗務する必要があり、汽笛でタイミングを図りながら運転していましたが、精々2連が限界であり、江若鉄道で夏場の海水浴シーズンに3連と言った記録もあるようですが、実際にまともに運転が出来たのか気にかかるところではあります。

さて、古い資料などを参照していますと、キハ41000を基本として、いくつかのバリエーションが作られたようです。
  • キハ41000 戦前気動車を代表する15.5m 20tの軽量車体 最高速度75km/h
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  • キハ40000 キハ41000の縮小版として車体長を11.5mに制限し、最高速度も65km/hとする代わりに貨車の1両もけん引できることを狙ったものでしたが、実際には殆ど実用にならなかったと言われています。
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  • キハ42000 キハ41000の車体を延長し19mに、エンジンを6気筒から8気筒に変更(GMH17エンジン)した車両 最高速度試験で108km/hを記録したと書かれています。
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    画像は全てwikipedia参照
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まだまだエンジンなどの技術が未熟な時期でしたが、鉄道省工作局車両課が中心になって、川崎車両、池貝鉄工、新潟鉄工
当初はガソリンを燃料とするGMH13その後、シリンダの数を8個にした、GMH17型エンジンが開発されました。このエンジンは、最高出力150PS(GMF13は100PS)に増強されました。
なお、ガソリン動車と平行してディゼル動車の開発も進められ、キハ41000のディゼル版としてキハ41500が、キハ42000のディゼル版としてキハ42500が製造されています。

電気式気動車誕生 
しかし、機械式では1両ないし2両程度しか連結できず、旅客増に対して対応できない問題があり、昭和12年に電気式気動車を試作することとなり3両1編成で試作されたのが、キハ43000でした。
当時は世を挙げて流線型ブームであり、EF55やC55形機関車、電車ではモハ52が同様に従来のスタイルと比すると流線型と呼ばれる形で誕生しました。
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エンジンはDMF31H(排気量31L 6気筒 水平対向エンジン)でしたが、水平対向エンジンは排気や潤滑で問題があったり、クランクシャフトが折損するなど問題が多かったようです。
ただし、このエンジンは戦後、縦型に設計変更してDD13形機関車に搭載好成績を収めることとなりました。
ちなみに、DD13形エンジンの気筒数を増やして12気筒としたものがDD51になります。
DD51のエンジンのルーツは、キハ43000間で遡ることが出来そうです。
なお、DMF31エンジンは、その後過給器を付加して出力を500PSまでアップしています。
その後、再びDMF31エンジンを横型にし、出力を400PSに絞ったDMF31Hエンジンを使って試作されたのがキハ60でしたが、この辺は既に書かせていただいておりますので併せてご参照ください。



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続く

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# by blackcat_kat | 2018-01-18 12:10 | 気動車
2018年 01月 15日

気動車発達史 1

気動車の発達
今回から、気動車発達史として何回かに分けてお話をさせていただきます。
第一回目は、内燃気動車の戦前までのお話をさせていただく予定にしております。

翠明期

気動車の歴史を振り返るとき、第一号と言えるのは、蒸気動車と呼ばれるものが最初で、湊町~橿原間に運転開始されたものが最初と言われています。
蒸気機関車の小型版のようなもので、ボイラーで発生した蒸気により車輪を駆動するもので、ハンガリーガンツ社製で4両(2両と言う記述もあり、また関西鉄道時代に導入されたようで、その後国鉄で使用)が輸入されたと記録されています。
ただし、ガンツ式は構造が複雑で、当時の日本の技術力では整備しきれなかったとも言われています。
その後汽車会社で、工藤式蒸気動車が開発されます、性能はガンツ式に劣りますが、当時の技術水準には合っていたようで、私鉄の他、鉄道院にも明治45(1912)年、から大正4(1915)年までの間に18両ほど納入されたと記録されています。
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工藤式蒸気動車 画像 Wikipedia

明治村に保存されているのは、工藤式蒸気動車になります。
その後、地方私鉄でも大正末期から小規模なガソリン動車が誕生し、鉄道省でも、昭和4(1929)年に12両が製造されました。
しかし、10mの車体で2.8m車体幅でありエンジンの出力に対して、重量が過大(19t(公称は15.5t)であり、走行性のも低く成功とは言えませんでした。)
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画像 Wikipediaから

製造後は、姫新線 姫路 - 播磨新宮間や播但線 姫路 - 寺前間等で使用された他、東海道本線 大垣~美濃赤坂~(西濃鉄道)市橋間等で使用されたと記録されています。
北陸本線 長浜 - 彦根間
さらに、2年後の昭和6(1931)年には、20m級のキハ36450形と呼ばれる内燃車が開発されますが、これもエンジンの出力に対して、重量が重く北陸本線で使用され、総括制御方式を採用の基礎データを提供できたようですが、燃費は非常に悪く、kmあたりのガソリン消費量は1.414L【約700m】】という不経済な車両だったそうです。
本格的な機械式気動車としては、私鉄向けに日本車輌が製作して経験が豊富であった日本車輌が開発に参加することとなり、キハ36900【後のキハ41000】形により一応の完成を見たと言えそうですが、キハ36900自体は国鉄というよりも、日本車輌が製造した車体がベースとなっているとした記述もあります。
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キハ41000形。その後改良型のキハ42000形とともに戦前を代表する内燃動車となります。


その後製造された、キハ42000形【後のキハ07形】は戦前を代表する内燃気動車【ガソリン動車】となりました。
以下、続きます。
製造量数に誤りがありましたので削除させていただきました。
失礼いたしました、お詫びして訂正いたします。

併せてご覧ください。 

気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話


戦前の試作気動車【キハ43000】

戦後気動車の復活【天然ガス動車】


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# by blackcat_kat | 2018-01-15 11:37 | 気動車
2017年 12月 16日

幻の白棚線専用車両 キハ10000

久々に投稿させていただきます。

白棚線という名前を聞いて、ピンとくる方はどれほどいるでしょうか。
東北本線の白河と水郡線の磐城棚倉駅間を結んでいた白棚鉄道が、その前身で、昭和16年には国鉄に買収されて白棚線とったそうですが、当時から輸送量は小さく、昭和19年には休止となっています。
戦後は、鉄道として復活が試みられますが、最終的に復活することはなくバス路線となりました。

白棚線の歴史をWikipediaで見てみますと、
  • 1952年(昭和27年)
    4月 鉄道建設審議会で鉄道の復元決定
    6月 棚倉古町 - 赤坂中野開業
  • 1953年(昭和28年)
    2月28日 磐城棚倉 - 漆草開業
    11月26日 この日白棚線の復活起工式が行われるが、軌道の建設を断念

となっています


ただし、実際に軌道の建設が断念されるのは、昭和29年以降であり、昭和31年には軌道時期を専用道化して現在に至っています。

そこで、古い資料を参照していますと、興味ある記事を見つけました。

それは、白棚線専用にレールバスを開発するというものでした。

それが、下記の図です。


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まず、出入り口の両端のステップが極端に長く、本当にバスのようなイメージとなっています。
これは、白棚線に復活させる駅は、ホームを設けない方針であったた(路面電車の安全地帯のような低いホームを想定していたと思われます。このようなドアがレール付近まで伸びていたそうです。
当時の交通技術(昭和29年5月号の記事では、下記のように書かれています。)
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さらに、同時期に白棚線用の貨物列車輸送用に計画された機関車がDD11でした。
こちらは、DMH17(気動車の標準エンジン)を2基積んだ機関車でした。
次ページの最後の方には、現在はバスが11往復であるが、この気動車を導入することで13往復まで増やして利便性がさらに高まると書かれています。
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バス代行で復活後も鉄道への輸送が考えられていたようですが、鉄道を復活させるよりもバスを走らせた方が多少経費がは上がりますが、フリークエンシー(頻発運転)が行いやすいとし、鉄道として復活することはありませんでした。
なお、設計が進められていたキハ10000形気動車は、前後のステップの長さを切り詰めた形に設計変更され、そのまま木原線(現在のいすみ鉄道)に投入されることになりました。
その後製作されるレールバスは、車掌が乗務するので、両端に出入り口を設ける必要がなくなり、中間ドアに仕様変更(後にキハ02と改番)されました。

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# by blackcat_kat | 2017-12-16 07:32 | 気動車
2017年 11月 01日

EF66形機関車について 第8話 最終回

JR貨物とJR西日本車で装備が異なることに

分割民営化により、貨物機関車が共用で客車列車を牽引することが原則として無くなった結果JR貨物と西日本では機関車が独自の進化を遂げたことは昨日お話した通りです。
コキ10000系(ワキ10000・レサ10000を含む)貨車が老朽化で廃止されたこともあり、直通管を連結器で直接つないでいた貨車も無くなり、JR貨物。JR西日本とも機関車側の配管を撤去してしまいました。
現在大宮の鉄道博物館で保存されているEF66-11は、原形に近づけるために当時の直通管付きの配管を復活させています。

ただし、100系貨車では引続き元空気溜管が必要だったようで、JR貨物では助士席側に元空気溜管が整備されるようになりました。
JR貨物のEF66は、電気連結器を持たない代わりに、元空気溜管(コックの頭が白く塗装) されたものが増設されているのがとくちょうとなっています。
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廃車など

JR貨物の機関車も0番台を中心に廃車が進んでいますが、JR 西日本に引き継がれたEF66は、ブルートレイン牽引という華々しい活躍を続けることになるのですが、ブルートレインの廃止を受けて比較的早い時期に淘汰された車両もありました。
そのうちの1両が、40号機。95年に老朽化により廃車されていますが、2次製作車両でありJR貨物が現役の頃に早々と廃車されています。
もう一つは、最終増備の55号機でした。
JR 西日本でも、もっとも状態の良い機関車として重宝されていましたが、92年に山陽線で発生したトレーラーとの衝突事故で車体を大きく損傷。その後奇跡的に復活を果たしましたが、高速運転時に原因不明の蛇行動が発生するなどの問題が生じて、97年にはこちらも廃車されています。
なお、ブルートレイン廃止の影響で、以下の4両が JR 西日本から JR 貨物に売却・編入されています。
EF66-54売却時期また調べておきます。<(_ _)>

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JR西日本に残った最後の2両は
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画像 wikipedia より引用

JR西日本に残った最後の2両は
最終的には1エンド側を嵯峨野観光鉄道に、2エンド側のうちEF6645号機は、埼玉県の眼科医院で展示、EF66-49は、奈良県木津市にある、パン・オ・セグールに保存されています。

パン屋さんの方は実際に搬入に立ち会ったことがあるのですが,1cmの隙間が入らなくてJRロジスティクさんが苦労されていたのを覚えています。








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# by blackcat_kat | 2017-11-01 20:25 | 電気機関車
2017年 10月 31日

EF66形機関車について 第7話

国鉄分割民営化と EF66

分割民営化で、国鉄は旅客会社と貨物会社を分離されました。
旅客会社は6社に分割することで地域性を持たせた反面、貨物会社は全国一律の組織として運用されることとなり、機関車の運用も大幅に変更されることとなりました。

昭和61年(1986年)11月1日付で、将来の旅客会社と貨物会社に分離のための措置が講じられ、EF66の一部(EF66 17~20・28・30~39・901)が下関から吹田に移管されました。
なお、下関に残った EF66形2次型の40~55号機は、引続き下関配置となり JR 西日本に継承されました。
これは、2次車が編成増圧装置付きの機関車であったことも一因だと思われます。

JR 発足後は、JR西日本広島支社下関運転所の配置とされ、(平成7年10月1日の組織改正で、下関鉄道部下関車両管理室)ました。

JR 西日本による改造

ブルートレインの魅力を高めるために、JR西日本では、平成元年に下関止まりの特急「あさかぜ3号・2号に12系改造の ロビーカー(スハ25)を連結しました、この車両は、カニ25以来のパンタグラフを持つ客車で、サービス電源を確保するためSIV(サイリスタインバータ)が床下に装備された車両で、電源車の連結を不要にしたうえで、ロビーカーとシャワー室を設けた車両でした。

緊急時には、電気機関車側(EF66)から、パンタグラフを降下させるためのスイッチがあり、制御用の電気連結器(赤丸部分)が設けられました。しかし、2005年に「あさかぜ(下関行き)」廃止の際に、スハ25も連結を中止したため、その後は連結器が使われることはありませんでした。
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ちなみに、JR 西日本の EF66全車及び JR 東日本田端区の一部の EF65(瀬戸牽引) の車両にこの装置が取り付けられました。

JR 貨物に使われる EF66は、電気連結器を持たない代わりに、元空気溜管(コックの頭が白く塗装) されたものが増設されています。
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画像はいずれも、wikipedia参照しています。



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# by blackcat_kat | 2017-10-31 21:43 | 電気機関車