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カテゴリ:気動車( 15 )


2018年 02月 21日

気動車発達史 11 特急形気動車の開発

本日は、気動車発達史として特急気動車の開発についてお話をさせていただこうと思います。
日本最初の特急気動車が誕生したのは、昭和35(1960)年でした、設計から製作までの時間が短かったのですが、これは後述しますが、アジア鉄道首脳者会議(ARC)の展示物として計画されたものでした。
少し気動車のお話から外れるのですが、「アジア鉄道首脳者会議」について少しだけ語らせていただこうと思います。

「アジア鉄道首脳者会議」とは

十河総裁の提唱でこの会議は始まり、第1回目が昭和33(1958)年5月に開催されたとされています。
その目的は、「アジア地域各国の鉄道首脳者を日本に招致して、日本国鉄の躍進振りを紹介し、相互の親睦と提携により共通の目的達成の誓を固める」と昭和33年7月号の交通技術では書かれていますが、要は日本国鉄の復興ぶりをアピールして車両の輸出に繋げようというもので、運輸省が本来では企画すべきような内容も当時の国鉄は行っていた・・・といいうか、国鉄=鉄道省みたいなもので、運輸省とは別組織・・・みたいな時代ではありました。(より正確には、戦前の鉄道省から鉄道に関する部分だけを抽出したと言う方がより正確ですが)な雰囲気でもあります。
第1回目のARCの会合は成功裏に終わったようで、2年後に再びARC第2回会議は、昭和35(1960)年10月14日から20日までの約1週間、日本で開催されることとなり、このときは、国立に新設なった「鉄道技術研究所」(現在の鉄道総研)の車両70両が集められ、第1回目が施設の見学が中心であったのに対して、車両中心の展示になったようです。

特急気動車の開発はアジアへの売り込みが目的?
2回目のARCでは、車両の展示が中心となり前年にデビューした157系電車やレールバス(キハ02)野心形客車、貨車などが
展示されていたようです。




急いで設計されたキハ81

キハ81は昭和34(1959)年から計画されていたものの、ARCでの展示を経て12月の運用開始に合わせるためスケジュール的にはかなり厳しかったのではないかと思われます。
設計当時からDMH17系エンジンでは非力であることは憂慮されており、それ故に同時並行的に開発が進められたのがキハ60系列でした。
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DMH17系エンジンも横型に設計変更したことで車内の点検蓋をなくすことが出来たのですが、潤滑不均一や、排気系の問題などが頻発し、発火事故等を何度も起こしてしまう事態となり、「はつかり、がっかり、事故ばっかり」と揶揄されたりしましたが、その反面特急気動車のフロンティアとして意欲的な取組も見られました。
その一つが、ボンネットの採用でした。
昭和33年に登場した151系のデザインは好評で、東北の気動車特急にも同様のスタイルを導入して欲しいという声があったそうです。
ただし、当時の東北本線はタブレット式の区間も多く、タブレットの授受に便利なように運転台は少し低くなり、またエンジンを横置きにするためボンネット全体も151系と比べると横に幅が広くて長さが短くなってしまいました。
その辺の事情は、昭和35(1960)年11月交通技術にも書かれていますので、少し引用してみたいと思います。

このディーゼル特急動車の目新しい点をあげてみる、
1.前頭の形は「こだま」と同じような形をしているが、単線区間でタブレットの扱いに便利なように、また信号が見易いように運転台が少し低くなっている。
この前頭のボンネットの中に電源としてのディーゼル発電機(I25kVA交流440V)が入っており、自動車のように上蓋を開いて内部の点検を行なうことができる。また食堂車の床下にも同じ発電機が吊ってあり、この3台の発電機はすべて運転台から操作できるようになっている。
2.車体外観・内部とも「こだま」とほとんど同じで色も「こだま」と同じであるが、ただ車体内張りにポリエステル化粧板(こだまはメラミン化粧板)を使用したことと、床がこだまとことなり、浮床構造で、客室全体がポリウレタンホームによって支持されていることなどが主な相違点である。(比較として一部の151系では従来の固定床を採用したので、このような記述になったと思われますが、これは執筆者の誤りと考えます)

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運転事故多発で信頼を失った「はつかり」形 キハ81

運転を開始すると、元々非力な上に高速・長距離運転と潤滑不均一による問題でエンジン停止してしまうものも多く、それが原因で発火事故を起こしたりすることも多く、せっかくの新型気動車も散々な結果となってしまうのですが、改良は進められ、昭和36年10月の改正からは、改良型のキハ82が誕生することになります。
キハ82については、別途章を改めて書かせていただきますが、徹底的な試運転が行われ改正ダイヤに沿っての運転が連日行われるなど徹底した初期故障の洗い出しが行われたと言われております。
結果的にそうした方法が功を奏して、キハ82は名車としての名をほしいままにすることになるのですがその辺は別途お話ししたいと思います。

続く

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by blackcat_kat | 2018-02-21 16:13 | 気動車
2018年 02月 17日

気動車発達史 10 高出力気動車の試作 キハ60形

キハ60に搭載されたDMF31系エンジン
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戦後、気動車のエンジンはDMH17エンジンの改良と言う形で進められていきました。
DMH17エンジンに過給器を接続して250PSまで引き出して機関車用として羽後交通のDC2に使用されたり、過給器並びにインタークーラーを付けて出力を300PSまで引き上げた DMH17SBと言う機関も存在したそうで、こちらも機関車用エンジンとして、釧路臨港鉄道D501や岩手開発鉄道DD43形に使用された実績があります。
国鉄ではDMH17系エンジンを機関車に採用した例は、DD11のみ(DD11も、元々は白棚線用に開発された機関車であり、キハ10000(後のキハ01)共々、戦後路線を復活させるに際してもその程度の輸送力であったということで、既に鉄道としての使命は終わっていた路線だったのかなと改めて思ってしまいます。
話を再び、DMH17系エンジンの話に戻しますと、国鉄では発電機用としてDMH17Sが使用されています。
20系客車の簡易電源車(マヤ20)の2次車(昭和40(1965)年)製造の際に発電用として搭載されていたようです、ちなみに20系客車のマニ20以降の新製車はDMF31系エンジンに発電セットを搭載していました。
そこで今回の主役である、DMF31系エンジンの話に入るのですが、このエンジンは、元を正せば戦前に鉄道省が、新潟鐵工所(現・新潟原動機)池貝製作所(現・株式会社池貝、株式会社 池貝ディーゼル)三菱重工業が各々製作したエンジンを便宜上総称したもので、戦後は大幅な設計変更をしたとも書かれており、同じ系列とするのは適切で無いと言う意見もありますが、ここではそうした議論をするのが目的ではありません。
少なくとも戦前のDMF31系(あくまでも便宜的な呼び方)をベースにして新設計されたのが戦後誕生するDMF31エンジン(ここでは縦型エンジン)であり、これを水平にしたものがDMF31Hエンジンでした。(Hは、Horizontalの頭文字)水平エンジンは「はつかり」に使われたDMH17Hと同様に潤滑が上手くいかずトラブルを起こしやすくなるのでした。
もちろん、戦前のキハ43000も同様の問題点を抱えていたと言われています。
そして、このDMH31Hエンジンを搭載して試作されたものがキハ60系気動車(キハ602両とキロ60でした)
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DMF31Hエンジン(上)と液体変速機
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キハ60が試作された背景
戦後、試行錯誤を重ねて液体式(当時は液圧式という呼称)気動車が一定の成果を上げると地方ローカル線の経営改善を求めて気動車の配置要望が増えました。
平坦区間だけであれば良かったのですが、勾配を含む線区が増えてくるとやがてその速度の遅さが問題となってきました。
旧北陸本線の柳ヶ瀬線では、当初はキハ17系あたりを入れていたのでしょうか、ダイヤ通り走れずに、いつもダイヤが乱れていたそうです。
そこで、2エンジン車を投入したら今度は、早く着きすぎたという笑い話がありました。
まぁ、そんなわけで2エンジン車も増備されたのですが、エンジンの台数が増えると当然のことながら整備に時間がかかるため高出力エンジンの開発が急務だったわけです。

キハ60の特徴

キハ60はそのような目的からDMF31系エンジンを横置きにしたうえで出力を400PS(過給機付き3段式変速機を搭載した意欲的なもので、当時の交通技術という部内向けの雑誌によりますと下記のように書かれています。
長いのですが、全文引用させていただきます。
交通技術昭和35年3月号
 去る1月29日に溶成したキハ60形(2両〉とキロ60形(1両〉がそれである。
車両の外観や室内は従来のキハ55・キロ25と一見大差ないように見えるこの3両の試作事は、次のような特長をもっている。床下には水平6気筒400PS機関をl台持もち、液体変速機や液体接手によって、速度段は3段(直結2段を含む)に切換えできるほか、駆動は台車の2軸に伝達するような構造になっている。また機関冷却方式には静油圧駆動方式の自動制御を用いたほか、気動車で初めてディスク・ブレーキを採用した。
 動車発展を目的として試作した3両は、いずれも違った構造とした。2両(こだま)と同様な浮き床構造でハニカムボードを床板に採用し、キロは固定窓として徹底的な防音を試みたほか、機関の排熱を利用した冷房装置の開拓試験も施す考えもある。そのうえ台車は空気ばね付の軽量高速台車とした。最高135km/hまで出し得る設計のほかに、出入口の扉は、戸袋を要しない外吊り式という新型だが、これは閉った時、側面は完全に平面となる新式半自動開閉式扉である。この試作車は、当分御殿場線・中央本線で試験試用される予定だが、今年秋に登場の東北特急(はつかり〉などにも貴重なデータを提供するであろう。

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キロ60の室内、扇風機が設置されていますが、冷房装置はありません。
キハ60で採用された主な新技術は
  • 動力台車の2軸駆動・・・キハ65やキハ180で実用化
  • ディスクブレーキ・・・・その後80系気動車(キハ82以降の量産車やキハ57で採用)
なお、変速機はその後DD51などでも採用される充排油方式の変速機であり、プラグドア方式は交直流電車の451系・471系にも採用されました。
また、この記事では固定窓と書かれていますが、どうも2重窓の仕様となっており将来的に冷房装置の設置を考えていたためそのような記述になったと思われます。

キハ60の試用結果
当時の資料では御殿場線では、交通技術の昭和35年8月増刊号では下記のとおり書かれています
御殿場線で試験の結果、運転性能・騒音及び振動防止の効果・動力伝達装置の強度・乗心地など、いずれも所期の目標にかなうものであることが確かめられた。
しかし、別の資料などでは振動。特に。変速ショックは相当なものであったという記録もあり、もう少しこの辺は調査する必要がありそうです。
実際に、問題がないのであればDMH17機関に置き換えられることはないわけですので、部内的にさすがにダメでしたとかけずにこのような表現になったのではないかと推測されます。

画像は、交通技術、昭和35年の記事から引用させていただきました。

続く

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by blackcat_kat | 2018-02-17 14:13 | 気動車
2018年 02月 13日

気動車発達史 9 一般形気動車 キハ20系の誕生

キハ55の成功を受けて
キハ44800(昭和32年の称号改正でキハ55)が製造されたのですが、この車両から車体幅が2800mmまで拡張されることになりました、キハ55の車体幅を大きく出来たのは車両の軽量化によると書かれている記事が多いのですが、それ以上に車両限界の拡張が行われたことも大きいようです。
日本における鉄道の車両限界の拡張が行われた事がより大きな原因であったと書かれています。
キハ55が製造される以前の車両限界は、第1縮小限界と呼ばれ、965mmの高さから一気に2600mmと狭くなっていました、国鉄では新しい車両限界の検討が行われ、昭和31年頃には新しい車両限界を適用できるようになりました。
新しい車両限界は、高さが引き下げられ820mmまで2850mm幅で車両を設計できるようになりました。
従前の気動車(キハ17系まで)が2600mm幅に抑えられていたのは出力もさることながら、こうした事情もあったと言われています。
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交通技術から引用

なお、その辺の事情については、交通技術昭和31年9月号の記載があります。
少し長いですが、全文引用してみたいと思います。
従来の第1縮小車両限界ではレール面上965mmにおいて、ぞれ以下の部分は幅が2,950mmから一度に2,642mmまで小さくなっていたものが、新車両限界によれば幅2,850mmではあるが、レール面上1,160mmから820mmまでまっすぐ下りる事になった。このお蔭で気動車の車体幅を客電車なみの2,800mmとした場合に、側出入口の踏段をも一緒にこの幅の位置までひろげる事が出来、ドア・エンジン付の側引戸も従来通りの寸法形状のまま、この2,800mmの幅の位置に造られた踏段上のレールにそって動かす事がすきるようになった。いいかえれば車とホームとのスキマが従来車よりも減ったということもできる。従来通りの第1縮小限界であれば、引戸の裾だけは幅2,600mmの位置に引込むように設計し、踏段や戸袋下部の形状も異様なものにせざるを得なかったであろう。またこれは従来キハが車体幅2,600mmでつくられるのが常識となっていた原因の一つでもあったのである。
また、記事では今後は車両限界も拡張されたことから、今後はキハ45000系の車体幅を大型化した一般気動車を誕生させる事も考えられると記されており、実際には昭和32年にキハ44500(キハ17)の置き換えようにちゅう。
再び、交通技術から引用させていただきます。
なお前にのべたように新しい車両限界で側出入口踏段が問題なく車体幅2,800mmの位置へ取付けられることとなったので、今後は従来のキハ45000系のものも車体幅2,800mmに大形化してつくられてゆくようになることも考えられる
ということで、国鉄ではキハ55で培われた軽量技術を活かして昭和32年からキハ20を中心とすることになりました。
キハ55のように優等車両は製造されず、一時形とも言えるバス窓タイプの車両と2段上昇窓にしたタイプに分けることが出来ます。
20系気動車は基本番台である、キハ20が昭和32(1962)年から昭和40(1966)年まで製造されましたが、キハ28が横型エンジンを採用したのに対して、普通列車用気動車として誕生したキハ20は、キハ52の一部を除き最後まで縦型機関が搭載された形式となりました。
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画像 wikipedia

キハ20系列気動車の仲間
新製車グループ
  • キハ20・・・・両運転台の気動車
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初期型のキハ20はバス窓タイプを採用 交友社 100年の国鉄車両から引用

  • キハ21・・・・北海道・東北の一部地域向け、キハ20に準じた構造で二重窓になっているもののデッキが無いキハ20と同じ構造のため乗客サービスの上で難があり昭和32年に84両が製造されたが翌年からはデッキ付のキハ22に移行しました。
  • キハ22・・・・北海道・東北の一部地域向け、キハ21の改良型で、ドアを両端に寄せてデッキを設けた車両、準急形のキハ55系とそのスタイルにおいて遜色は無く、711系交流電車、キハ40 100番台の基準となり、昭和50年代では多く急行列車などにキハ22が使われたりしたものでした。
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交友社 100年の国鉄車両から引用北海道向けの初期車は、キハ20に準じた外観であり、サービス上に問題がありました。

  • キハ25・・・・キハ20の片運転台タイプ、初期の車両は白熱灯でしたがその後は蛍光灯に変更されました。
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交友社 100年の国鉄車両から引用 200番台からは、近代的な2段窓となりました。

  • キハ52・・・・キハ20の2台エンジンタイプ、大糸線で最後まで活躍したことは有名、前期型と後期形の分けることが出来、後期形はエンジンがDMH17からDMH17H(水平対向)に変更され、足回りに関してはキハ58と同一となりました。
  • キハユニ25・・・新製された、合造車、キハ21をベースに製作された寒冷地向け
  • キハユニ26・・・新製された合造車、キハ25をベースに製作された車両


改造車グループ

  • キユニ21・・・昭和41年にキハ21を改造して製作された車両


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by blackcat_kat | 2018-02-13 22:00 | 気動車
2018年 02月 12日

気動車発達史 8 キハ44800(キハ55)の開発と発展

本格的準急気動車の誕生

連日、気動車発達史として書かせていただいておりますが、今回は本格的準急気動車キハ55を取り上げたいと思います。
キハ55は、キハ44600の成功を受けて、10系客車の軽量化の手法を応用した車両で、先行試作車としてキハ44800(後にキハ55に編入)が昭和31年に3等車のみ5両が試作、完成後は日光線に投入されています。
日光線にこうした新車が導入された背景には、当時は国鉄と東武の間で激しい競争を繰り返していたからであり、東武が1700系電車を投入したことで更に苦戦に立たされることになりました。
東武が1,700系を投入したことを受けて、キハ55を投入、その後、日光線電化で157系が投入されると、東武は1700系の投入を中止し、1720系(DRC)を投入するなど、当時の競争はかなり激しいものがあったものでした。
今回は、東武の1720系のお話では無く気動車発達史ですので、本題に戻りたいと思います。
キハ44800の特徴
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100年の国鉄車両から引用

先行して試作されたキハ44800は足回りはキハ44600とほぼ同等で台車も、キハ44600と同じ、DT19形台車が採用されました。
DT19形台車は枕バネの代わりに防振ゴムを使用した台車であり、私も経験がありますがびびり振動が多くて乗り心地は決して良いとは言えませんでした。
準急用としてはかなり問題があったかと思うのですが、当時は国鉄で用意できる気動車用の台車が無かったので、この台車で出場しています。

キハ44800とキハ44600比較

そこで、キハ44800とキハ44600の比較を試みてみようと思います。
  • エンジン キハ44600 DMH17 160PS キハ44800 左同
  • 車体幅 キハ44600 約2.6m  キハ44800 約2.8m
  • 車体長 キハ44600 20.6m キハ44800 約21.3m
  • 車体高 キハ44600 約3.7m キハ44800 約3.9m

    ちなみに、21.3mと言う長さはその後の気動車の標準となり、JR各社にも引き継がれています。

さて、21.3mとなった理由を探してみますと、昭和31年9月号の交通技術に下記のような記事がありました。

引用してみますと、

連結面聞が20mでなく更に延ばしたのは、20m車とした場合に客車の標準形20m車とほぼ一致するような設計をとり得る事が狙いであり、運転台のある場合にはそれだけつぎ足した形になるようにしたからである。将来キサハのような附随車或いは運転台のない動車を造るとすれば、形式図の動車から運転台の分だけやめた20mで造る訳である

将来的には運転台が無い車両の場合は20mの車体を作ると書かれていますが、キハ80系は中間車も21.3m製造されており、当初の狙いは無かったことになっています。

また、今回の21.3mとなったのですが、キハ44600で問題になった、デテクター・パー(転轍機が勝手に切り替わらないように制限する装置)ですが、これにつきましては、下記の通り限度いっぱいまで伸ばすことで、修正すること無く全国の線区で運用できるようにしたそうです。

再び、交通技術から引用させていただきます。

心皿中心間隔はl4.3mで、この値はデテクター・パーの長さl2.5mとの関係から定められた相隣る輪軸中心間の水平距離の限度12.3m一杯までとり、固定軸距2mの台車を使用する事からきまって来た長さである。
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キハ44800の車体の特徴


準急用車両として計画されたもので、キハ44,600と異なるのは車体幅だけでは無くデッキも設けられ、準急列車にふさわしい?内装にしたそうですが、エンジンは引き続きDMH17エンジンを採用していますので、床上の点検蓋は残りました。

それ故、オイル臭が残るなど、問題になってものでした。

余談ですが、初期に製作されたキハ44800ですが、その後誕生するキハ55と比較すると運転台の窓が小さいというか。バランスが悪いのですが、これはキハ44600のガラスを流用したので、先行試作の5両は運転台の窓が小さくなっています。


準急用として誕生した試作車キハ44800は、キハ55として増備されることになりましたが、昭和32年までの1~46までは通称バス窓と呼ばれるタイプとなり、昭和33年以降は1段上昇窓に変更されました。

更に、1エンジンとしたキハ26や優等車としてキロハ25や全室優等車のキロ25が増備されることとなり、準急の気動車化に大きく貢献することとなりました。
準急用の2等車は、特急の3等車(157系の3等と同じ)回転クロスシートを装備となっていましたが、準急自体が消滅したことから昭和42年から格下げが行われ、内装はそのままにキロ25→キハ26-400番台 キロハ25→キハ26-300番台に改番されました。

その後は、荷物気動車などに改造されますがその辺はまた別の機会にでもお話しさせていただこうと思います。


続く






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by blackcat_kat | 2018-02-12 11:52 | 気動車
2018年 02月 08日

気動車発達史 7 高出力機関気動車の試作

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キハ44600の試作と失敗
キハ44600(キハ50)形は、昭和29(1954)年に2両が試作されました。定員134人(座席92人、立席42人)でDMH17エンジンを初めて2台積んだ気動車でした。(当時の資料、交通技術。昭和30年1月号による)
このような気動車が誕生した背景には、DMH17系エンジンの出力不足がありました。
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キハ44600試作することになった理由を述べた交通技術の記事
25‰勾配で25km/hしか出せないが、キハ44600では45km/hまで向上できると記されています。
また、将来的には準急列車用にも発展できるよう考えたいと記されているのは興味深い内容です。

160PSのエンジン1台では、平坦線こそ蒸気機関車牽引の車両よりも高速で走れるものの勾配に入ると一気にスピードが低下してしまうことから、勾配線区への投入などが難しいと言う事情がありました。
そこで、抜本的な改善を図るために、下記のような方法が考えられました。
  1. 現行機関の部分改造による(180 PS化)
  2. 過給機を取付ける(200PS化)
  3. 1車に2機関を積む(160PS×2台)
  4. 別途大出力機関を新設計(370PS)→キハ60試作車
の4方式が考えられたそうです。
1)に関しては、プランジャーと言う装置(噴射ポンプ付近に設けられる装置のようですが詳細はご存じの方おられましたらご教示ください)の直径を8mmから9mmに変更することで160PS→180PSに変更したもので、東北線・日光線で使用され良好の成績を得たとされています。
その後の気動車のDMH17エンジンの出力は180PSとなりました。
2)に関しては、過給器を付けて出力の増大を図ったもので、200PS以上の出力を狙って試験が続けられましたが、半年間日光線で使用したところその成績は芳しくなかったと記録されています。
なお、その辺の事情はマラ別の機会にアップさせていただきます。
4)別途大出力機関を新設計するという方針は、昭和31(1956)年時点では設計中とされていましたが、結果的には失敗することになります。
概要としては、キハ43000系気動車で試用されたエンジン(当時はDD13に搭載されて使用されていた)を再び設計変更と出力を下げて370PSとした機関を搭載するというものでした。
結果的には、当時の技術では変速機とエンジンのスムーズな連携ができなかったり、潤滑が上手くいか無いという問題が多発(この問題はキハ81で繰り返されるのです)して、試用後キロ60は昭和37年にDMH17エンジンに、キハ60も昭和40年にはDMH17に換装されています。
http://blackcatk.exblog.jp/237662473/
もご覧ください。
結局、3案である、DMH17エンジンを2台搭載することが、当時としては時間的な制約があり、より最適な解であると考えていたようで、新機関による気動車に期待していたように見受けられます。
そこでキハ44500をベースに、2台エンジン車として製作されたのが、キハ44600でした。
この車両は、2台のエンジンを搭載するために車体長は22m、台車中心間(ホイルベース)は15,700mmという長大なものとなりました。
完成後は、早速関西線に投入され試験に供されましたが、試運転中にある問題が発生しました、それは、分岐器の通過時にポイントが途中で転換しないようにする保安装置((Detector Bar)と呼ばれるメカニカルストッパーを跨いでしまうタイミングがあることが判明したのでした。
走行に関しては、何ら問題が無かったため、保安装置の改修(バーの延長)を施すことで対処することとなりましたが、製造はこの試作2両でとどまることになりました。

キハ44700による量産型誕生
その後、キハ44600形の経験を活かして、車体長を再び20m(正確には20.6m)に抑えた気動車が製作されることとなりました。
この気動車に関しては、プロペラシャフトの短縮、ラジエーターの小型化などの措置が行わた結果、車体長を短くすることが出来たそうで、これにより使用線区の制約も無くなりました。
早速、関西線に投入されることになり、後述するように関西線における準急列車をすべて気動車に置き換えることになります。
キハ44700と準急気動車の誕生
黄は44600が関西線に投入された背景には、やはり近鉄の存在が大きかったと思われます。
まだ、当時は近鉄は大阪線が広軌(標準軌)、名古屋線が狭軌で、中川乗り換えを強いられていました事も関係していたと思われます。
キハ44600により準急気動車が昭和30(1955)年3月22日から準急気動車が1往復誕生しています。(キハ51+キハ17の組合せでした)
キハ44700(後の51)は翌年にかけて20両が製作されることになりました。
その後は後述するように、車体を10系客車の手法を取り入れたキハ44800(キハ55)に譲ることとなり、全国準急列車網を構築するための礎となっていきました。
明日は、「キハ44800の開発と発展」ということでお話をさせていただく予定です。
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by blackcat_kat | 2018-02-08 09:42 | 気動車
2018年 02月 04日

気動車発達史 6 10系気動車の始祖 キハ17系気動車を中心にしたお話

本日は、液体式気動車の決定版となった、キハ45000(後のキハ17)についてお話をさせていただこうと思います。
キハ45000形は、分割併合も考慮した貫通スタイルとして、キハ44500をベースにした車両ですが、側面は電気式のキハ44100と同様の両端にドアがある構造になっていました。
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キハ45000(キハ17形)

キハ45000系について少しだけ解説を加えてみようと思います。
車体幅は、キハ44000に準じた2600mm幅で車体長は20m、内装も概ね準じたもので、白熱灯が2列で昔の客車と比べれば明るいとはいえ、かなり薄暗い車内でした。
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昭和28年製増の車両、背ずりが低く大人だと頭が触れあうレベル
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不評だったので背ずりを高くして、頭が触れあわないようにした、昭和29年から増備の改良型、
背ずりを高くした代わりに肘掛けが省略されました。

また、車体は軽量化のためシートも背ずりが低かったようです。昭和29年度増備の車両からは、背ずりが高くなりましたが、肘掛けを省略など、引き続き軽量化を意識した車両となりました。
100年の国鉄車両に当時の車両の内部写真がありましたので引用させていただきます。

また、キハ45000系列の車両としては下記のようにいくつかの車両が製造されました。
  • 片運転台 キハ45000(トイレあり)後のキハ17
  • 片運転台 キハ45500(トイレなし)後のキハ16
  • 運転台無 キハ46000(トイレなし・運転台なし)後のキハ18
  • 運転台無 キロハ47000(トイレあり・運転台なし)後のキロハ18 トイレは優等車側
  • 両運転台 キハ48000(トイレあり)後のキハ11
  • 両運転台 キハ48100(トイレなし)後のキハ11
  • 両運転台 キハ48200(トイレあり)後のキハ12(初の北海道向け)
  • 片運転台 キハ44600(トイレあり 2エンジン)後のキハ50
  • 片運転台 キハ44700(トイレあり 2エンジン)後のキハ51

注:キハ44600は、車体長が長すぎて転轍機の保護装置に抵触するため使用線区を限定去れ、増備も2両だけで終わりました。
なお、1両は新潟地震の際に陸橋の下敷きとなって大破し解体されました。


キハ45000は、増備が進むにつれて編成で運用されることが多くなり、運転台を省略して中間車を作ろうということで、キハ46000形(後のキハ18)が45000形の増備と平行して製作されることになりました。
この車両の特徴は、キハ45000から便所と運転台を撤去したもので、定員が8名増となりました。

また、翌年昭和29(1954)年には地方線区でも優等車の必要があるということで、2・3等合造車のキロハ47000(後のキロハ18)形が5両製造されています。
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キロハ47000
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キロハ47000の車内

なお、wikipediaを参照しますと、「千葉県庁と千葉市役所から「気動車にも二等車を連結されたい」という強い圧力があり、やむなくこれに対処したものであるという」等の記述がありました、手元にそれを証明する資料がないのでそのまま掲載させていただきます、以下は導入された経緯に関する私的な推測ですが、出張に際して、経費の関係で連結を要望したものであろうと思われます。(公務員の旅費規程では部長級以上は、優等車の連結された列車が1本でもあれば、優等車両の運賃で旅費が計算されたため)実際に千葉県庁なり市役所の部長級が実際に利用したかもしれませんが・・・。規程を生かすための方策であったのではないかと推測されます。急行砂丘に半室グリーンが連結されていたのも同様の理由からだ考えます。)
さらに、昭和31(1956)年には2両増備されており、こちらは「準急かすが」に連結するためのものであり、キハ51を両端に連結して準急色を纏った統一された編成で湊町から名古屋間を近鉄特急に対抗するように走っておりました。

キロハ47000形の2等車部分は、当時の並ロと呼ばれた向かい合わせ式の車両で少し高めの背ずりと肘掛けが付く車両でした。

次回は、キハ44600についてもう少し掘り下げてお話をさせていただこうと思います。


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by blackcat_kat | 2018-02-04 14:19 | 気動車
2018年 01月 31日

気動車発達史 5 戦後の電気式気動車

電気式気動車の試作、再び

戦前試作された、キハ43000はエンジンの振動が大きく、試作品としては成功とは言えず戦後は復旧すること無く浜松工場の職員輸送用として先頭車が使用された他。中間車は電車用サハとして一時期活用されたようですが。結局キハ43000系列は戦後は振り返られることはありませんでした。
キハ43000に使用されたエンジンは、戦後再び縦型に設計変更され、DD13形機関車に搭載されました。
その後改良が進められたDMF31エンジンは500PSとなりました。
さて、その辺の詳細は、弊ブログ、挫折した試作車・・・キハ60 に掲載しておりますので、併せてご覧ください。
戦後は、キハ43000が再び電気式気動車として使われることはありませんでしたが、総括制御するための気動車として戦後再び電気式気動車が投入されることになりました。
そこで誕生するのが、キハ44000でした。
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戦後試作された電気式気動車 キハ44000(第1次試作車)国鉄線から引用
DMH17エンジンで発電機を回して、100KWの発電機を回し、45kwのモーター2個を駆動するもので、昭和27年8月に、2両編成各2の4両が製造(日車及び汽車が製造)され木更津機関支区(当時の名称)に配置され。房総線で活躍したと記録が残っています。
特徴は、当時流行していた、湘南スタイルで側面は3ドア車となっていましたが、試作車2両は側面が湘南電車同様の一枚窓出会ったのに対し、先頭車は心持ちボディを延長したため、間延びした感じを与えました。
その後改良形は、正面マスクが80系に近いものとなりスッキリとしました。
また、3ドアは変わりませんが、後にバス窓気動車と呼ばれる側面窓の車両として11両が製造され、房総地区で主に活躍しました。
九州地区に投入されたグループは、キハ44100(中間車はキハ44200)形と呼ばれ、両端に出入り口を設ける手法はその後キハ45000(キハ17)に引き継がれることになりました。
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キハ44000~キハ44500 側面図 交通技術から引用
比較として設計された液体式

電気式気動車は、その性格上構造が複雑で製造費も高く付くなどの問題があり、並行して液体式気動車の施策が行われました。
液体式についても戦前に完成していた神鋼造機製の液体変速機が鷹取工場に保管(放置?)されていたものが発見されて、これを整備のうえ、エンジンと液体変速機を組み合わせた状態で2か月程試験を行ったところ所定の成績を得られたので、その後、キハ42500形42503(後のキハ07)機械式気動車に取り付けて、関西線で走行試験を行ったそうです。
当初は液体変速機に十分油が充填されないトラブルが発生してエンジンの焼き付きを起こしたそうですが、その後改良が加えられ、再試験では好成績を得られたと記録されています。
その後、車両は川越線に移動し、底でも試験が続けられた後、昭和28年には、気は44000形と同じ中間ドアを持つキハ44500形が4両試作されました。
ここに至り、液体変速機とDMH17エンジンによる総括制御の目処が立ったことから、その後の気動車は液体式で行くこととなりました。

液体式気動車の最初の量産車 キハ45000

キハ44500で所定の成績を得られたことから、量産型と言うべきキハ45000形が計画されることとなりました、キハ45000の特徴はキハ44100の外観にキハ44500の足回りを組み合わせたような形であり、分割併合を考慮して貫通型に変更されることとなりました。
形式としてはキハ45000(後のキハ17)、キハ46000(後のキハ18)が最初に製造されました、その後便所を省略したキハ44500(キハ16)やキロハ47000(キロハ18)形が製造されました。
最終的には、ローカル線での輸送単位を考えると運転台無しの中間車は、特急形以外は製造されることは無く、キロハ47000は全車、キニ15に改造されたほか、キハ46000もキハニ15形に改造されるなどして運転台無中間車は普通気動車では消滅することになりました。

続く

併せて、こちらもご覧ください。

気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話





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by blackcat_kat | 2018-01-31 22:56 | 気動車
2018年 01月 28日

気動車発達史 4 天然ガス動車

戦後のあだ花 天然ガス動車

本日も気動車史をご覧いただこうと思います。
今回は、戦後のわずかの間だけ活躍した天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。天然ガス動車自体が活躍期間も短かったこともあり、あまり資料も探せなかったのですが、できるだけ技術的な話を中心にまとめさせていただこうと思います。

天然ガス動車が誕生した理由
その前に、天然ガス動車なるものがどうして運転されることになったのかを知っていただこうと思います。
気動車が自動車と同様に、石油で走ることは皆さんよくご存じだと思いますが、日本にあっては、日華事変以降石油は統制品となり自由に民政レベルでは使えなくなりました。
当時も日本は石油の92%を輸入に頼っており、その81%が実にアメリカからの輸入であったと言われています。
そして、アメリカは昭和16(1941)年6月には、米国、石油全般の輸出許可制実施(第1次石油禁輸)を実施、さらに同年8月には更に制裁を強化して、(第2次石油禁輸,対日輸出全面停止)として、全面的に石油が入ってこなくなる自体となりました。
そうなってくると、使えるのは備蓄した石油だけとなり、2年分がやっとであり、本格的な戦争状態になれば半年や1年で使い切ってしまうだけの備蓄量しか無い状態に置かれたと言われています。
それにより日本は蘭印の石油を求めて蘭印へ石油を求めることとなるのですが、こうした行為が更にアメリカの圧力を強めることとなるのですが、こうした一連の流れはアメリカを含む欧米のパワーバランスに日本が乗せられたという側面もありますし、アメリカとしても新たな権益として中国大陸を欲していたことに対する日本が目障りであったのでは無いかという仮説も立てられますが、私自身は鉄道史以外は詳しくないので、この辺にさせていただきますが、違った視点から考えることもトキには重要では無いかと思っております。
さて、こうした一連の流れの中で皆さんもよくご存じの通り、昭和16(1941)年12月8日には大日本帝国は戦争に突入していくこととなり、昭和20(1945)年8月15日、無条件降伏を受け入れて戦争は終結に至るのですが、戦争終結=石油禁輸解禁とは当然のことながらならずでした。
ただ、いつ頃から石油事情が好転したのかは判らないのですが、昭和23(1948)年には、GHQ、ジョンストン報告により石油精製装置スクラップを撤回とありますし、昭和24(1949)年には、東亜燃料工業、スタンダード・バキューム石油(後のEsso)と資本提携契約締結していますのが、天然ガス動車が国鉄で運転を始めたのは、昭和24年からでした。
結果的に昭和27年(1952)に石油の統制は解除され、天然ガス動車は再びディゼルカーに再改造されることとなり、活躍期間は非常に短く、実際に天然ガス動車が活躍したのは4年ほどでした、

天然ガス動車は千葉と新潟だけで運転された。
天然ガス動車は、千葉と新潟地域だけで運転されました、その理由はいずれの地域も天然ガス田があり、自給できることが大きかったと言われています。
古い資料を参照しますと、最初にガス動車が運転されたのが、昭和16年5月に木原線で運転開始されたのが最初だそうです。
戦後は、昭和22年3月10日から木原線で再び運転開始されたと記録されています。

天然ガス動車の実力はいかに?
実際には、天然ガスはガソリンやディーゼルエンジンと比較すると出力も低く(概ね70%から80%)であり、かつ、当初はガスボンベを床下に搭載する方式であったためかなり非効率であったことは容易に判断できます。
それでも、輸送力増強の要望もあったことから、昭和25年(
1950)4月に新小岩工場で9両のキハ42000形が改造されたのを皮切りに、千葉県内では、久留里線、房総東線、房総西線、木原線、東金線で、同様に天然ガスを産出した新潟近郊の越後線、弥彦線、信越本線(新津~新潟、直江津~新井)、磐越西線(馬下~新津)にも投入され、長野工場でも11両が改造された。同年10月には、千葉地区用に2両が増備されて、計22両が天然ガス動車が誕生しました。

天然ガス動車は、ガスボンベを床下に積む方式であり、木原線で使用されたキハ41000では20本のボンベを搭載し、1本のボンベで走行できる距離は10km~12km程ですので、200km~240km程度しか走れず、4往復程度するとボンベを積み換える必要があったようです。
キハ42000形の場合は、ボンベの数は24本搭載しており、ガスの価格が高く非常に不経済であったと言われています。
その後、200気圧の親ボンベから充填してもらう方式に変更され、更にその後は専用線を設けて直接ガス供給業者から直接供給してもらう方式に変更されたとされています。
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交通技術昭和25年6月号から引用

そんな、天然ガス気動車ですが、石油事情も好転したことから、昭和26年からはガソリン動車より経済的なディーゼルエンジン搭載の気動車のみが新製されることとなりました。
なお、昭和25年度にキハ41000形から11両、キハ42000形から7両がガソリン動車から
ディーゼル動車に改造されています。

当時の資料記事から
なお、天然ガス動車、ディーゼル動車の経済比較などをまとめた表が同じく、
交通技術昭和26年1月の号に掲載されていましたので、併せてこちらでアップさせていただきます。
ディーゼル動車として使われたエンジンは、日野DA55形エンジンであり、出力は75PSで、天然ガス動車と同じ出力であり、力不足は否めませんでした。
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その後、DMF13に換装した車両や、換装されなかった気動車は、DA55形エンジンを出力強化改造したDA58形エンジンを搭載した車両が登場し、形式もキハ41500→キハ41400に改番(出力75PS→100PS)される車両が誕生したとされています。

続く





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by blackcat_kat | 2018-01-28 22:39 | 気動車
2018年 01月 22日

気動車発達史 3 戦前の電気式気動車

キハ43000その後
キハ43000は、完成後試験に供されたようですが、自動車の水平対向エンジンでも弱点として指摘されている、「水平シリンダー配置の場合には、シリンダー内面の不均一な潤滑油膜による偏摩耗など、潤滑に起因する問題」が発生し、当時の技術力では十分にカバーできなかった部分もあったようです。 【前述】
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基本的には、キハ43000形についてもう少し書いてみますと。
3両固定編成で、両端先頭車が動力車 20m車体で、エンジン出力は、240PS(1300r.p.m)でした。
中間付随車 17mと、車体長が異なっていました。
出入り口は、前後2カ所にあり、キハ17などと同様に客車に近いレイアウトであり、先頭車の運転台後ろの出入り口が片引戸に対し車端部の扉は内開戸でデッキ付と変わった構成となっていました。【中間車は、両端とも内開き戸でした】
なお、蒸気暖房が採用され、付随車に専用ボイラーが搭載されていたそうです。
さらに、車両間は密着連結器が採用されて板と記述されています。
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キハ43000編成写真 鉄道ジャーナル1974-7月号記事から引用
元画像は、国鉄提供

試用を開始した昭和12(1937)年は日華事変が始まった年であり、6月9日に商工省局として鉱山局から分割、当初は石油業法の運営を掌どり、第1部の油政課は石油業の統制等を行ったと記録されており【第2部は人造石油などの製造】、昭和18(1943)年中には休車となってしまいました。
その後、浜松工場で保管されていたようですが、空襲で被災、戦後は復活することなく、昭和23年には廃車となっています。
中間車は一時期、飯田線で付随車として、活躍したとされています。

明日は、戦後の内燃機関事情として、天然ガス動車のお話をさせていただきます。


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by blackcat_kat | 2018-01-22 22:50 | 気動車
2018年 01月 18日

気動車発達史 2 戦前の機械式気動車 三態

戦前の機械式気動車 三態 

昨日も書きましたが、電気式気動車は重量が重く、日本の鉄道には不向きであり、国鉄としては、ローカル線用としてキハ41000やキハ42000を製造していきました、ただ、機械式の最大の欠点は重連運転が出来ない事でした。
重連運転をしようと思えば、前後の車両に運転士が乗務する必要があり、汽笛でタイミングを図りながら運転していましたが、精々2連が限界であり、江若鉄道で夏場の海水浴シーズンに3連と言った記録もあるようですが、実際にまともに運転が出来たのか気にかかるところではあります。

さて、古い資料などを参照していますと、キハ41000を基本として、いくつかのバリエーションが作られたようです。
  • キハ41000 戦前気動車を代表する15.5m 20tの軽量車体 最高速度75km/h
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  • キハ40000 キハ41000の縮小版として車体長を11.5mに制限し、最高速度も65km/hとする代わりに貨車の1両もけん引できることを狙ったものでしたが、実際には殆ど実用にならなかったと言われています。
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  • キハ42000 キハ41000の車体を延長し19mに、エンジンを6気筒から8気筒に変更(GMH17エンジン)した車両 最高速度試験で108km/hを記録したと書かれています。
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    画像は全てwikipedia参照
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まだまだエンジンなどの技術が未熟な時期でしたが、鉄道省工作局車両課が中心になって、川崎車両、池貝鉄工、新潟鉄工
当初はガソリンを燃料とするGMH13その後、シリンダの数を8個にした、GMH17型エンジンが開発されました。このエンジンは、最高出力150PS(GMF13は100PS)に増強されました。
なお、ガソリン動車と平行してディゼル動車の開発も進められ、キハ41000のディゼル版としてキハ41500が、キハ42000のディゼル版としてキハ42500が製造されています。

電気式気動車誕生 
しかし、機械式では1両ないし2両程度しか連結できず、旅客増に対して対応できない問題があり、昭和12年に電気式気動車を試作することとなり3両1編成で試作されたのが、キハ43000でした。
当時は世を挙げて流線型ブームであり、EF55やC55形機関車、電車ではモハ52が同様に従来のスタイルと比すると流線型と呼ばれる形で誕生しました。
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エンジンはDMF31H(排気量31L 6気筒 水平対向エンジン)でしたが、水平対向エンジンは排気や潤滑で問題があったり、クランクシャフトが折損するなど問題が多かったようです。
ただし、このエンジンは戦後、縦型に設計変更してDD13形機関車に搭載好成績を収めることとなりました。
ちなみに、DD13形エンジンの気筒数を増やして12気筒としたものがDD51になります。
DD51のエンジンのルーツは、キハ43000間で遡ることが出来そうです。
なお、DMF31エンジンは、その後過給器を付加して出力を500PSまでアップしています。
その後、再びDMF31エンジンを横型にし、出力を400PSに絞ったDMF31Hエンジンを使って試作されたのがキハ60でしたが、この辺は既に書かせていただいておりますので併せてご参照ください。



http://blackcatk.exblog.jp/237662473/

続く




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by blackcat_kat | 2018-01-18 12:10 | 気動車