2018年 04月 21日
キハ10系気動車の置換え用として 国鉄用気動車は、昭和40年代前半まで新製が続きましたがその後は電化の進展などによる配点で賄われてきたこともあり、本格的な近郊形として開発されたキハ45も100両程で製造は中止されてしまいました。 無煙化の立役者となった10系気動車も、その後誕生した気動車と比べるとその居住性は劣り、老朽化と相まって大変見劣りしていました。 そこで、置換えを考慮して新設計された気動車が、キハ66・67でした。 ![]() ![]() ![]() 新幹線連絡としてふさわしい車両として キハ66・67形気動車は、新幹線連絡を担う気動車という位置づけもあり、本社で検討された結果、普通列車用ではあるが快速や急行列車に使っても遜色がない車両ということで計画がなされました。 昭和49年から設計が開始され、開業前の昭和50(1975)年1月までに間に合わせる予定だったそうですが、実際には3月入ってから、それも30両が全車揃ったのは、3月31日だったそうで、その間一部の列車は運休をせざるを得なかった記録されています。 なお、車両は新製後直ちに、門司鉄道管理局管内の直方気動車区に配置されることとなりました。 この辺りの詳細は、直接気動車の発達とは関係ないので別の機会にお話をしたいと思います。 さて、元々キハ66・67形気動車は、新幹線連絡を兼ねて汎用的に使いたいということから、今までの車両と次のような点で異なっていました。
これにより、快速や急行列車にも運用できる車両として位置づけられました。 また、車両の特徴を見ていきますと。
DML30HSは出力ダウンして安定化 DML30HSエンジンは500PSの出力の反面、故障も多かったため、上記のとおりエンジンの改善を行った、ただし全長が変更されるなど、従来型のDML30HS系エンジンとの互換性は無くなったと言われています。 急行色をまとった近郊形 急行列車にも運用することを考慮して、標準急行色をまとった車両として誕生しました。 実際に、筑豊本線ローカル急行列車である「はんだ」および「日田」に使用されました。 ![]() 昭和50年の時刻表から、急行日田 (日田~湯布院間は、キハ58系とキハ66.67が併結運転していました)急行由布一号と連結されて走っていました。 なお、キハ66・67は一年間で稼働の様子を見てから量産する計画と書かれていましたが、残念ながら量産されたのは現在もJRで気動車の主力と?して残る40代気動車になるのですが、その編はまた次回とさせていただきます。 ■
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| 2018-04-21 12:11
| 気動車
2018年 04月 17日
急行列車の冷房化推進 昭和40年代になると、生活水準は向上し、急行用1等車【グリーン車】も冷房化が進み、旧2等寝台のマロネ29やスロネ30と言った1等C寝台(非冷房車)も淘汰されており、引き続き急行用2等車の冷房化が計画されることとなりました。 しかし、ここで気動車の冷房用電源をどのように確保するべきかという問題が生じたのです。 特急気動車の場合は、キハ80系では、DMH17H-G形エンジンで発電して125KVAの集中電源装置で給電していますし、181系気動車ではDMF15H-G機関により150KVAの集中電源装置で編成全体の電力を賄うようになっています。 しかし、急行用気動車の場合、先行して1等車が【グリーン車】独自で冷房用エンジン(4DQ形ディーゼルエンジンを動力源とする25KVAに発電機)を搭載して自車を賄うようになっていました。 急行用気動車冷房化で困ったこと そこで、2等車【普通車】の冷房化の場合は、1等車以外を冷房化することで良いと言うことになるのですが、キハ58の場合、エンジンが2基あり、新たに電源装置を搭載することが出来ません。そこで、1エンジンで床下に若干余裕がある、キハ28に発電セットを搭載すべく70KVA(4VK)の電源装置が開発され3両の給電が可能となりました。 ![]() ![]() そこで、冷房化と高出力化の両方を満たすために、キハ65形が計画されることとなりました。 ![]() キハ65は、キハ58との併結を主な目的としていたため、制御機器もキハ91やキハ181のハンドル式マスコンではなく、従来の方式と同じ装置が使われており、変速・直結の切換も従来車同様に手動式とされていますが、トルクコンバータの直結構造が爪クラッチとなっており完全な同期が必要となるなど、若干はキハ58などとは異なっていますが、キハ91で問題となった自然冷却方式ではなく、こちらもキハ58などと同じ強制冷却方式に変更されました。 ドアが折り戸となったのは、キハ91と同じ理由で台車の側面で重量をさえる特殊構造の台車を使用した結果でした。 窓は、12系客車と同じ上段上昇下段下降の153系以降の急行電車などに採用されたユニット方式でした。 また、洗面所の設備が省略されましたが、その分シートピッチが長くなり、1580mmとなっていました。 シートも背ずり下部が大きく張り出し、少し座面が低くて座り心地の大変良いもので、冷房装置と相まって指定席車に優先的に使われたそうです。 ![]() ![]() ![]() ■
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| 2018-04-17 23:15
| 気動車
2018年 04月 15日
特急用気動車 キハ181系誕生 昭和43年10月の改正で、中央西線に特急気動車による高速運転が計画され、その目的達成のために計画されたのが、キハ181系特急気動車でした。 既に、特急気動車としてはキハ80系気動車が走っていましたが、DMH17Hエンジンは1台あたりの出力が180PSと小さく、同一エンジンを普通列車も特急列車も使用することで得られたメリットも多かったのですが、特急気動車の場合編成あたりの出力は6.5PS/tにしかならず、平坦線でも100km/h 、25‰の勾配線区では42km/hしか速度が出ず、そこで昭和37年度から新系列気動車の開発が進められ、昭和41年には試作車としてキハ90(300PS)並びに、キハ91(500PS)が試作され、翌昭和42年には、量産型試作車として、キハ91形【キハ91-7両、キサロ90-3両が試作されました。 そして、今回試作されたキハ91をベースとして計画されたのが、先程申し上げたキハ181系特急気動車でした。 ![]() ![]() 画像はWikipediaから引用 キハ181とデザイン キハ181系は、キハ82系のデザインをほぼ踏襲した形ですが、ライトカバーが角形となるなど全体に厳つい印象をあたえることになりました。 ![]() さらに、80系気動車と比べると一部設計変更がされており、主なところを上げると下記のようになります。
![]() 特に軽量化に意が払われた先頭車 先頭車のキハ181は、前述のとおりサービス用電源エンジン(DMF15H-G)エンジンと、DML30HSC形エンジンの両方を搭載しており、運転整備時の最大軸重を13t【後述】するために、特に軽量化に意が注がれましたが、それでも整備重量は51tに達したそうです。 なお、それ以外の制御回路はキハ91と同様のものが採用されましたので、キハ91とキハ181は連結が可能でした。 実際に、キハ181系トラブル時にキハ91を投入したと言う記録もあるそうです。 ただ、従来型気動車との併結は考慮されておらず、読替装置は設けらていません。 広域転配を考慮して計画された設計 キハ181は中央西線用として計画されましたが、中央線電化後は奥羽本線に転用することを考慮して6M1T編成で、機関1台が停止した状態でも34‰勾配を30km/hで走行できるように配慮したそうで、低速時での冷却不足を考慮して、キハ58で儲けられたと同じ強制送風式の放熱器も設けていたそうです。 それでも奥羽本線では、夏場などでオーバーヒート事故が多発して、当初は単独で走っていましたが、途中から電気機関車のお世話になったのはご存じの通りです。 なお、軸重を13tに抑えた背景には、最高速度を120km/hとした上で線路負担強度を検討した結果から、軸重を13tと言う数字が出てきたそうです。 最高速度を低く抑えれば、線路の負担強度は増しますが、そうで無い場合は速度を大幅に抑えなくては成らないからです。 余談ですが、現在の東海道・山陽新幹線の軸重は11tに抑えられていますが、これも同様の理由で、270km/h【300系計画当初】の振動や軌道破壊の特性と、0系車両の220km/hの値がほぼ同値で有るためと言われています。 中央西線のエースとして 中央西線の特急として、華々しくデビューしますが、山岳区間を縫う列車ということで最高速度は伸びず、表定速度は60.3km/hと特急列車としては最低を記録してしまいましたが、従前の急行列車と比べて約40分の短縮となっており、特急化による高速化の意図は十分果たせたと言えそうです。 ![]() 昭和44年5月の時刻表から 増備される、181系気動車 中央西線に投入されたキハ181系は、翌年度には「特急つばさ」に、昭和45年度には「特急やくも」、昭和46年度には特急「しおかぜ」・「南風」がそれぞれ181系特急車両で置換えられました。 なお、1次車は踏面ブレーキが採用されましたが、翌年度の増備車からは、キハ82で定評があったディスクブレーキ方式が再び採用されることとなりました。 これは、勾配線区で踏面ブレーキによる熱容量の問題があると判断されたからでした。 板谷峠では再び機関車のお世話に 「特急つばさ」として、キハ82系から置き換えられた、181系は当初は、板谷峠でハイパワーを活かして電気機関車の補機を必要としない単独運用が組まれていたが、屋根上の自然放熱式冷却器では長時間にわたる高速運転では十分冷却されず過熱状態となってしまううえ、通風量が不足することで冷却能力が著しく低下、奥羽本線の勾配区間に入っても、機関の定格出力いっぱいの運転が実施された結果、ヘッドガスケットの吹き抜け、排気マニホールドの過熱 → 発火・焼損等といった致命的な事故が頻発したため。予備車が不足する事態となり、単独運転とされていた板谷峠では再びEF71形の補機を連結するように昭和47年のダイヤ改正で変更されることになりました。 この措置は奥羽本線が交流電化される昭和50年の奥羽本線電化まで続けられることになりました。 ■
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| 2018-04-15 10:17
| 気動車
2018年 04月 01日
国鉄では、昭和41年から113系に準じた気動車を投入することとなりました。 今までの一般形と呼ばれた気動車は、片開き式の1枚扉でしたが、キハ45は113系のような両開き扉を採用した車両 前面はキハ58系に似た前照灯が2灯付いたスタイルを踏襲、窓は113系と同じパノラミックウインドウを採用していました。 ただ、車両幅は今までの一般気動車と同じ2800mm【正確には2803mm】であり車体長はの21.3m【キハ55以降この長さが国鉄・JR共に気動車の標準寸法となったようです。】となりました。 これは、2機関搭載のキハ53をベースに設計を行ったからだと言われています。 ![]() 画像 wikipedia 外観はキハ28・58の車体幅を絞った上でパノラミックウインドウ【その後キハ28・58もパノラミックウインドウを設置】となり、側面は113系が3ドア出会ったのに対して2ドアとなっている点は異なりますが、同じような窓配置でした。 ただし、113系が2段上昇式の窓でしたが、キハ45は153系などで見られた上段上昇、下段下降のユニット窓となるなど詳細は異なっていました。 また、シートピッチに関しては、これまた113系電車を参考にしたためか、1400mmと少し現在の車両と比べると小さく、膝を突き合わせると互いの足がぶつかるほどでした、ちなみにキハ25形は。シートピッチ、1470mmとなっており、シートピッチに関しては、キハ25系の方が優れていました。(追記して訂正させていただきます) あくまでも近郊形という位置づけですので急行形のように窓下にテーブルなどは設置されず、幅も2800mmと小さいことから窓側の肘掛けも省略されていましたが。キハ20と比べると車内の中心を通る排気管も無く【キハ52後期増備車はDMH17Hを採用していたので排気管は無し】全体に近代化されたイメージでした。 なお、このシリーズは下記のようになっていました。
キハ45系列の車両は、総数179両と少なく製造期間も昭和41年~43年と短かったにも関わらず全国に少数ずつ配置され、キハ20や17と混結して活躍したものでした。 この辺は、国鉄が同じエンジンを採用していたため形式こそ違えど全く違和感なく連結できた功績と言えましょう。 幻に終わったキハ45増備計画 キハ45は、その後も増備が予定されていたようですが、既に充足数は足りていたため新たな増備は行われず、キハ17系の老朽廃車が始まる昭和50年頃まで近郊形【一般型】の気動車が増備されることはありませんでした。 なお、昭和61年4月の鉄道ピクトリアル、キハ35・45特集では、キハ45を増備する計画があったそうで図面も設計されたそうですが結局、幻で終わったと書かれています。 遜色急行として九州で活躍 キハ45は、居住性が高かったこともあり、九州では急行列車、「からくに」に使われたそうです。 昭和41年10月号の時刻表、急行「からくに」をアップさせていただきました。 ![]() ![]() ■
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| 2018-04-01 00:04
| 気動車
2018年 03月 26日
量産型キハ91誕生 キハ90形並びにキハ91形は新製後、千葉区に配属され検討された結果、大出力のDML30系エンジンを今後の気動車の標準エンジンとすることが決定されました。(在来気動車との併結の際は、読み替え装置が設けられていたそうです) 高出力エンジンを使用することで、付随車を随時挿入することが出来るほか、冷房用エンジンを設置するスペースを確保できることで経済性が高まると言う判断でした。 そこで、更に量産に向けての実証用として、キハ91形7両とキサロ90形3両が昭和42年7月に製作されました。 キハ91形については1両のみ試験的に冷房装置を搭載、その他車両は準備工事にとどめられました。 また、1等車【グリーン車】は付随車として製作され、当初から冷房付きになっていました。 キサロ90の外観はキロ28を踏襲したものですが、キロ28-0番台が張り上げ屋根であったのに対し、普通の雨樋があるタイプの屋根となり印象が変わりました。 ただ、キロ28の最終増備車である、キロ2309 - 2314・2508 - 2518に関しては外観をキハ65と合わせたため、キサロ90に近いイメージになりました。 ![]() いかめしい読み替え装置を付けたキハ91量産車の外観 キハ91量産試作車は、キハ91試作車が全体に丸みを持たせたものであったのに対して、後に製作されるキハ65に似た外観でした。 国鉄部内雑誌、交通技術の資料に書かれている記述を引用させていただくと、試作車の運用で得られた内容を基に、特に耐寒耐雪対策などを盛り込んだと書かれています。 少し長いですが、全文引用したいと思います。 キハ91は試作車の使用経験を生かして種々の改良が行なわれている。走行性能の向上・従台車の滑走防止・機関の点検を容易にするための燃料噴射ポンプおよび始動電動機の移設・屋根上放熱器に補助送風機を取付けた冷却能力の増加・小形継電器の密封化・自動連結器の錠のせり上り防止・側折戸の開閉容易化・排気管の防振支持などを実施している。寒冷地で使用するので、必要箇所に耐寒耐雪対策も併施した。特に発電機関を冬なども運転するため、ウオーミングアップ・不凍液・オイルパンヒータを追加した。ここで書かれている、混結装置とは、運転台下に付いている箱であり、ノッチの読み替え等を行う装置でした。 wikipediaの写真などでは、この制御装置が外されている写真が上がっていますが、落成当初は下記写真のように運転台下を殆ど埋めるようなに装置が付けられていました。 なお、キハ91-8のみ冷房装置が試験的に搭載された以外は、準備工事とされたことは前述したとおりですが、クーラーに代えて補助送付機が設置されていました。 下図参照 ![]() 結局最後までキハ91 1~7は冷房化されることはありませんでした。 当初千葉区に配置されたキハ90・91試作車は量産試作車と共に名古屋区に移転となり。昭和42(1967)年12月から、「急行しなの」運用に入ることになりました。 ![]() ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-26 23:04
| 気動車
2018年 03月 25日
長々と続けておりますが、今回は新系列気動車の基礎となった、キハ90・91のお話をさせていただこうと思います。 車両に関しては結構見つかるのですが、肝心のDMF15エンジンとかFDML30HS系エンジンに関する資料が手元に無くて・・・。 その辺りの不明な点は補足いただければ幸いです。 高出力気動車用エンジンの開発と挫折 さて、国鉄でもDMH17系エンジンによる保守費の増加や製造コストが高くなることに対してはかなり問題意識はあったようで、DD13で使われていたエンジンを再び横型にした、DMF31Hエンジンによる、キハ60形が試作されました。 出力的には十分なものであり、新機軸を【充排油式】の液体変速機や、2軸駆動などの新機軸が取り入れられましたが、変速機の問題【直結と変速の切り替わりのタイミングが合わず、過大な衝撃負荷によるクラッチ破損等】問題があり、量産はされることはありませんでした。 新しい、標準エンジン誕生、DMF15系エンジンと、DML30系エンジン その後も国鉄と民間メーカー【新潟鐵工所、ダイハツディーゼル、神鋼造機】による共同開発は続けられ、昭和37年には、全く新しい設計のDMF15HZエンジンが、翌昭和38年には、DMF15系エンジンをベースに12気筒化した、DML30HSAエンジンが開発されました。 DMF15HZエンジンは、過給器(ターボチャージャー)並びに中間冷却器(インタークーラー)を装備し、連続定格300 PS / 1,600 rpm を誇りました。 なお、12気筒化された、DML30HSAは、過給器(ターボチャージャー)装備で500PSを発揮していました。 そこで、このエンジンを実際に搭載した気動車を試作することとなり、誕生したのがキハ90・91気動車でした。 キハ90がDMF15FHZAエンジン搭載の300PS、キハ91がDML30HSAエンジン搭載の500PSでした。 車両の特徴は後述しますが、最終的に国鉄として、気動車用にはDML30HSAを搭載したエンジンを、DMF15HZAエンジンは発電用エンジンとして利用する方針が決定しました。 実際には、DMF15系エンジンは、その後老朽化したキハ17の置き換えようとして増備されることになるキハ40系列の気動車に採用されるのですが、これは後の話 試作気動車、キハ90とキハ91誕生 DMF15系エンジン並びに、DML30系エンジンを基に比較のため、DMF15HZA搭載のキハ90並びに、DML30HSAエンジンを搭載したキハ91が試作されることになりました。 昭和41年3月に完成し、千葉区に配置されて各種試験に供されたようです。 車両の特徴は、丸みを帯びた独特のパノラミックウインドウ、更に側面出入り口の3枚折り戸と言ったところでしょうか、側窓は153系と同じ上下2段のユニット窓となり、キハ58とは大幅にイメージが変わりました。 なお、天井には大型ラジエターが搭載され、外観は大きく変わることになりました。 なお、冷房装置の搭載は試作車では見送られることになりました。 ![]() 当時の交通技術と言う部内向けの雑誌を参照しますと、下記のような書き込みを見ることが出来ます。 少し引用させて頂きます。 台車は、新設計のもので、キハ90用の1軸駆動DT35、キハ91用の2軸駆動DT36及び両形式の従台車TR205ともに基本構造は同じ、心ザラなしの全側受方式になっていました。 なお、この台車方式はその後キハ65やキハ181系に引き継がれることになります。 ![]() 交通技術 昭和41年6月号から引用 また、運転台は、全く新しい発想のユニット式運転台であり、その後キハ181にも採用される2ハンドル方式でした。 右側がセルフラップのブレーキ弁で前方に押して作用する。左側は主幹制御器でこれも押すと力行になり、またエンジンプレーキもこのハンドルの操作によるとされていました。 また、右から時計・圧力計・速度計・電圧計等が蛍光発光する方式となっていました ![]() 続く ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-25 21:45
| 気動車
2018年 03月 16日
本日から、キハ35形通勤気動車のお話をさせていただこうと思います。 キハ35形気動車と、便所の設備を撤去したキハ36、両運転台のキハ30があり、寒冷地向けの500番台や、オールステンレス車体として試作された900番台があります。 通勤用気動車の誕生 さて、キハ35形気動車が誕生した背景ですが、通勤対策が大幅に遅れていることが原因でした、その辺の事情を天王寺鉄道管理局三十年写真史に求めてみますと、下記のような記述が見られました。 全文引用させていただきます。 ![]() ![]() ![]() 関西本線DC化と書かれています。 ![]() 気動車史上初の通勤形 もちろん、当初から国鉄本社としては関西線のみの専用形式というよりも、千葉地区などでも投入を予定したいたようです。 最初の選定路線として、平坦区間が多く、気動車の置換えで効果が高いところという視点から選んだと言われています。 実際、奈良~湊町間は、大阪のベッドタウンとして戦後急激に発展していました。 近鉄は電化されていたにも関わらず、当時の関西線は、蒸気機関車牽引の客車列車が主力で、客車は老朽化し、乗降扉は走行中の施錠もできない手動式で、昭和初期と大差ない前時代的な旅客サービス水準でした。 列車本数(片道)も日中は1時間に1~ 2本、朝ラッシュ時でも1時間に4~5本程度と、並行する近鉄奈良線や大阪線と比べるまでも無い状態でした。 そこで、この区間をDC化することで近代化すると共に旅客輸送の需要に応えることとして開発されたのが、キハ35形気動車でした。 電車とは異なる特徴有るスタイルに ![]() この気動車の特徴は、101系通勤電車をその範に取るというものでしたが、全く電車のスタイルを踏襲するわけにはいきませんでした。 その一つが、車体に設けられたステップでした。 元々客車時代のホームは高さ760mm、電車専用区間1100mmm、電車・客車併用区間920mmとなっていました。 田舎の駅では極端に低いホーム【気動車の台車やエンジンが見える】に遭遇することがありますが、これは客車時代のホームの扛上【かさ上げの意味】がなされていないからです。 そうしたホームが数多くありますから、従前の気動車同様、ステップは必須であり、それ故に外吊り3枚扉という独特のデザインが誕生したのです。 これは、ステップを設けなくてはならない反面、そうするとスペースがステップの分だけ圧迫されることになりますし、まして車体中央に1.3m幅の開口部(有効開口幅は1.2m)を設けて戸袋を設けると台枠の一部を切ることになり、台枠強度が低下することになりました。 また、車両の中央部に1.3mの開口部を設けるため車両の艤装スペースがその分狭くなります。 結果的に2エンジンを搭載することが不可能となってしまいました。 また、通勤用と言う性格上、この車では軸重増を考慮して車軸径を少し太くした他、いままでの液体式ディーゼル動車との混結運転も可能となっています。 ![]() 異色だったのは、出入り口付近のパイプに灰皿が見受けられたことでしょうか。 また、通勤用気動車で有りながら、便所も設置されているなど、随所に電車とは異なる思想がありました。 なお、翌年の昭和37年には、トイレ無しのキハ36形が投入された他、寒冷地である弥彦線にも、キハ35形が投入され,同年9月12日から使用されました。 弥彦線に投入されたキハ35は500番台を冠する寒冷地仕様で、501~512の12両が越後弥彦線管理所に配置されたとされています。【当時は管理所制度がありました、(JR西などに見られる鉄道部に似た制度)】 ベンチレーターの押込式など寒冷地向けに仕様が一部変更されています。 ちなみに、弥彦線にキハ35が導入されたのは、吉田~東三条間の沿線に工場が多く朝ラッシュ時の混雑が激しいためであり、キハ17のロングシート化を新潟支社として提案したが、台枠強度の問題から不可となったことによるものでした。 続く ![]() ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-16 00:56
| 気動車
2018年 03月 12日
久々に、投稿させていただきます。 キハ28・58のお話、結構書き始めると深くなってしまってなかなか進みません。 やっと、修学旅行気動車のお話をさせていただける手はずとなりました。 キハ28・58は急行用の代表的な形式として活躍しましたが、修学旅行用としてもキハ28・58が製造されました。 修学旅行用として製造されたのは、キハ58形19両とキハ28形13両の合計32両で、昭和37年(1962)~昭和38(1963)年にかけて製造されました。 最初に導入されたのは、九州であり、利用債を引き受けて貰うことで実現したもので、159系に準じた内装で、159系のように2+3では無く一般的な2+2でしたが、155系でおなじみの跳ね上げ式テーブルを設置した他、客室内速度計を設置していました。 ![]() ![]() 客室後部【3位側(連結面寄りで運転席を先頭とした場合右側の座席)】はシートを引き出して簡易寝台に出来るようになっていました。 ![]() ![]() また、国鉄部内誌、交通技術によりますと、洗面所は2人同時に使えるように拡大し、飲料水タンクも40リットル×3を用意することとなっていました。と書かれています、画像は洗面所の画像なのですが、飲料水タンクが2個しか見えないのですが予備のタンクがあったのでしょうか?その辺は詳細は不明です、線路と平行に洗面台がおかれていたことがこの写真から窺えます。 ![]() 「とびうめ」は、太宰府天満宮の飛梅 からの愛称であり、九州の列車らしい愛称と言えましょう。 また、昭和38年には、東北地区でも利用債を引き受けに伴い800番台気動車が製作されており、こちらは「おもいで」という名称となりました。 ![]() リバイバル塗装の、キハ28 画像Wiikipadia ただし、修学旅行気動車も電車と同じ塗装でしたが、油煙のためどうしてもくすんでしまうのは仕方の無いことと言えました。 ちなみに、キハ28・58で初めて、室内照明に蛍光灯が本格的に使われるようになり、幅広の車体と相まって、利用者には好評でした。 また、それまでの気動車は半自動式と呼ばれる方式でドアは自動では開かず、手で開ける必要がありました。(閉ドアは自動)これを改めて開閉共に自動で開くようになったのも、キハ28・58からでした。 ということで、今回のお話はこれで終わりますが・・・まだまだシリーズは続きます。 次回は、キハ35系列のお話をさせていただく予定にしております。 なお、画像は特記以外は、交友社100年の国鉄車両の画像を利用させていただきました。 ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-12 23:19
| 気動車
2018年 03月 06日
少し間が空いてしまいました、久々に投稿させていただきます。 今回もキハ28・58のお話になります。 全国で1000両以上製造された名車、キハ28.58 ![]() 昭和27年当時のキハ44500がデビューした頃は2.6mの車体幅で高さも低く全体に貧相であった気動車もエンジンの出力は僅かに20 PS増えただけですが、車体幅は2.95mと特急車両と遜色なくなり、キハ55譲りの21.3mの車体長は全体に余裕のあるレイアウトを生み出すことになりました。 キハ28・58形気動車は、1000両以上製造され、晩年はローカル列車にも投入されましたが、本当に日本を代表する気動車と言えました。(キハ56・57を含めた延滞では1818両が実に昭和35年度から昭和43年度までに製造されました) 国鉄が民営化され、ロカール線の廃止なども行われたこともありこの記録は破られることは無いと思いますが、逆な言い方をすれば全国どこに行ってもキハ28・58が、いたものですからちょっと食傷気味にもなったものでした。 気動車急行の標準形 キハ28・58 急行形気動車の標準として誕生したキハ28・58は、先行して誕生したキハ56や57と基本的な構造は変わらないものの多少の差異はありました。 北海道向けのキハ56が床を木製としたのに対して、リノリューム張りとしたこと、キハ57がアプト区間を通過するため空気バネで車体の高さを調整し床下機器がラックレールに接触しないように配慮され、ブレーキ装置もディスクブレーキを採用していましたが、キハ58系は、台車もコイルバネに変更されるなどの違いがありました。 ただ、同じ形式のキハ58であっても製造年次が昭和35年から43年と9年の開きがあり、製造年次などで多少デザインが変わっていきました。 特に昭和42(1967)年度本予算車(誕生は1968年のため1968年製造の記述がある場合もあり)では、153系電車のように、パノラミックウインドウでスカートも設置されるなど外観が大きく変わりました。【それまでの気動車は、コストダウンのためパノラミックウインドウは省略され視界を確保するためできるだけギリギリまで窓を寄せるようになっていました。 これは、後述のキハ45とデザインを合わせる意味合いがあったのでは無いかと思われますが、軽快感は増したと言えます。 なお、キロ28・58は153系サロ152と同じ下降窓方式が採用されましたが、サロ152が蛍光灯カバーを設けていたのに対し、キロ28・58は蛍光灯カバーが省略されるなどコストダウンとはいえ格差を付けられているそんな感じでした。 ただ、当時の国鉄車両の特徴ですが、下降窓における水抜きの設計が拙かったようで、昭和50年代には、下降窓から上下2段のユニット方式の窓に変更される車両が現れ、優雅なイメージから一転、なんとも言えないスタイルになってしまいました。 長編成に対応したキハ28・58 液体式気動車は特急形を除けば基本的に足回りは共通で、エンジンはDMH17、ブレーキ装置はガソリンカー時代から使われている、DAブレーキ装置と呼ばれる自動空気ブレーキが採用され、制御は直流24V の電源を採用していました。 この場合、この方式ですと、長大編成になると、制御引通し線の電圧降下やブレーキの遅延が問題視され、編成で11両、エンジンは17台に制限されるなどその問題は深刻でした、そこで、昭和38年から落成するグループから、下記のように仕様が変更され、15両編成、エンジンまで対応可能なように仕様が変更されました。 各車に小型補助継電器を取り付けて、制御引き通し回路と接続して次車電源で各作用電磁弁を動作させることで、電流容量の逓減と電圧降下を避けるようにしたほか、ブレーキ装置も電気制御回路を付加した電磁弁式自動ブレーキを採用し、(DAE方式)としました。 これにより、最高15両編成、23エンジンまでの対応が可能になったとされています。 なお、国鉄時代の雑誌、交通技術昭和55年2月号を参照しますと、下記のような記事がありました。 これによりますと、 昭和35年より急行用気動車を新製しましたが、このうち信越線アプト区間来入用のキハ57等は、プレーキ力安定化のため中継弁付自動プレーキ(DAR)を採用、北海道用(キハ56等)、一般用(キハ58等)は途中から電磁自動プレーキ(DAE)が採用され、抑速用としてエンジンプレーキも採用した。と書かれており、特急気動車のキハ80系は、一般形や急行用気動車とは異なるブレーキ装置が設けられていた記述されています。 再び引用させていただきます。 昭和35年新製の80系特急形気動車には電磁速動プレーキが採用された(第12図)。電磁速動プレーキは、基本的には自動プレーキであるが、制御弁とパラレルに補助ダメと中継弁を結ぶ電磁弁を通る空気回路が付加されている。 ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-06 22:31
| 気動車
2018年 03月 03日
![]() キハ58系列は、総数1,823両が製造され日本全国で見ることが出来た急行気動車でした。晩年は、普通列車などに使われることも多かったのですが、最初に作られたのは北海道向けのキハ56系列であり、その後製造されたのは信越線用のキハ57系列でした。 北海道向けが最初に作られたのには理由がありました。 それは、北海道に優等列車向けの気動車が無かったからでした。 昭和31年からキハ55形の製造が始まりました、北海道には酷寒地形の気動車としては、昭和32年に製造が開始されたキハ21と翌年。デッキ付にするなどして保温性と暖房性能を強化したキハ22が誕生しますが、いずれも普通列車用でした。 特に、キハ21は出入り口付近にデッキが無く、後年(1975年頃)になって一部の車両にアクリルの防風板が出入り口付近に設けられました 。 話が、キハ58から外れてしまいました、改めてキハ58のお話をさせていただこうと思います。 さて、北海道のキハ58は1次車のみ車体のカーブが直線的であり、それ以後の緩やかなカーブを描く車両とは異なっていました。 また、1次車のみヘッドライトの間隔が小さいと言われています。 なお、北海道向けに製作されたキハ56は、昭和35年度の借入車両(民有車両)としてキハ56 5両、キハ27 10両、キロ26 5両及び自己資金(債務負担行為)でキハ27 2両、計22両が製作されたそうで、3月下旬に落成、急行“すずらん”の置換え、準急"オホーック”かむい”の増強に使用される。 と記述されています。 ![]() ![]() 当時の「すずらん」の編成を見ますと、1等車【グリーン車】を連結する車両であり、当時の優等列車の一角を占めるものであることが窺えます。 ![]() さて、民有車両と言う言葉が出てきましたが、これは当時輸送力増強で車両を新製するための予算が足りなかったときによく使われた手法であり、車両メーカーで車両を製作、それを借り受け5年で買い上げるというもので、5年分割で車両を購入する訳で、ローンで自動車に乗るような感覚でした。 車内の銘板付近に民有車両を示す丸いマークが描かれていたと言われています。 キハ57の投入がキハ58よりも少しだけ早かった理由は、善光寺参拝客輸送 さらに、昭和36年4月には長野県善光寺のご開帳に合わせるための気動車キハ57が誕生しています。 国鉄の部内誌、交通技術によりますと、下記のように書かれています。 ![]() 36年度新形式で専ら上野~長野間急行に使用され、4月から始まる善光寺様の御開帳に極力間に合わせるべく急いで製造したが4月中旬から5月上旬にかけて16両が落成し、引続いて追加10両は5月の契約となる予定である。 と記録されています、更に昭和37年には長野電鉄の湯田中まで延長運転【二等車2両】されており、連日120%以上の乗車率出会ったと記されています。 昭和37年国鉄線の記事を最後にアップさせていただきます。 上野~湯田中間直通運転開始 ![]() 章を改めてアップさせていただきます。 ■
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by blackcat_kat
| 2018-03-03 21:42
| 気動車
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