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2018年 02月 25日

気動車発達史 12 特急形気動車の発展 キハ82のお話を中心に

キハ81形誕生当時の話

キハ81形は、地方非電化区間の特急列車を走らせる目標を達成させることが出来ましたが、ARC第2回会議の目玉にしようとしたため、結果的に走り込みの期間が短かくなり、初期故障を出し切れなかった事が、原因で有ったといえそうです。

当時の鉄道ピクトリアル、12月号を参照しますと、ARC第2回会議の目玉にしようとして、昭和34年末頃から設計が始められて、昭和35年の9月には落成しています。
鉄道車両の場合は、早くても半年程度は製造にかかるため。正直かなり厳しいスケジュールだったと思います。

実際に、第2回ARCでは臨時列車として、日光まで臨時列車として往復運転されたそうですがこれも概ね好評で、フィリピンの代表等が、是非買いたいと言われたと、鉄道ピクトリアル12月号では書かれています。

また、キハ81に関するこぼれ話としましては、昭和35年9月15日に大宮~小山間で受取試運転が午前中実施され、午後からは川越線でロケが行われたと記されています。
さらに、9月18日には多くのエキストラを乗せてはつかり号の実質的な処女運転となる、ローケーションが行われました。
当時の鉄道ピクトリアルの記事から一部引用させていただきます。

 現「はつかり」のおきかえ用として、9両編成を2編成、増結をも考慮してキハ81 2両、キハ80 4両、キサシ80 1両、キロ80 1両の予備車、合計26両が完成、9月15日初秋の大宮一小山間に第1編成の公式試運転が行なわれた。この車は前にちょっとふれたように製作工程も非常につめられていたが、特に第1編成では完成後も多彩なスケジュールで実にいそがしい日程であった。これ程の車にしては慎重に検討する時期があまりにも短かすぎるのが心配だったが。公式試運転の日から快調な性能とすばらしい乗心地で好評であった。
 公式試運転をすませて午後には、すでに川越線での口ケーションがまっていた。映画「ディーゼル特急」は、その昔ガソリンカーといわれたキハのようらん時代から、今日の特急ディーゼル動車に至るまでの移り変りをえがいた、いわば主人公「はつかり」の生いたちの記であり、また、後半に上野から青森への行路を写した総天燃色、企画、日本国有鉄道、製作は岩波映画製作所。
川越線のロケでは先頭車の前にさらに緩急車(ヨ)がつけられ、運転室前面の撮影が行なわれた.9月18日にはこの「はつかり」の実質上の処女旅行ともいうべき・・・云々と書かれています。



実際の営業運転を始めて見ると、12月17日には、一部車両の逆転機破損と判明し前途運休。したという記述があります。
当然の事ながら翌日からは再び蒸気機関車牽引に戻ったそうです。


当初は、蒸気機関車と同じダイヤのまま、昭和35年12月10日には、ダイヤは蒸気機関車のままで気動車特急に置き換えられることとなりました。
その後、昭和36年3月のダイヤ改正で45分ほど短縮するとしています。
ただ、資料として見つけ切れていないのですが、はつかりの初期故障など、資料をまた調べてからアップしますのでしばしお待ちくださいませ。

なお、国鉄の部内誌などでは、初期故障はあったが本質的な問題は無かったと書かれています、実際には発煙事故で蒸気機関車のお世話になったりという運転事故は多々あったようなのでその辺は改めて資料を探ってみたいと思います。

早期落成と徹底的な走り込み
昭和36年には10月の白紙ダイヤ改正では、各地に特急列車を設定することとなり、その運転区間は下記のようになっていました。
函館~旭川 (特急 おおぞら)(函館~札幌間10両、その後6両)
 上野~秋田 (特急 つばさ)
 大阪~青森・上野(特急 白鳥) 大阪~直江津間は12両、その後分割して6両は上野へ
 京都~熊本・宮崎 (特急 かもめ)  京都~門司間は12両、その後分割して6両は宮崎へ (計画時点で変更されたと思われます)
京都~松江 (特急 やくも)
 京都~博多 (特急 まつかぜ)
 大阪~広島 (特急 へいわ)
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昭和36年10月の改正から
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京都~熊本・宮崎が実際の改正では長崎・佐世保になった理由は探してみたいと思います。

なお、増備車は当初から、分割併合の運用が考えられていたことから、車両の前面は貫通型となりました。
車両の特徴について、当時の資料を参照しますと下記のような記述が見られます。

 主な特長は先述の先頭車の形状のほか、分割併合に便利なように発電セッ卜の制御関係が複雑となっており。各車の電灯も分割のたぴに消灯しないよう、発電セットが運転状態のまま切入できるように各車にブレーカーを設けてある。
 発電セットは床下に取りつけ、運転室の後部に中央通路の両側に放熱器・機関予熱器・燃料タンク・水夕ンクなどを配置した機器室がある。
キハ82には売店をやめた。放熱器は"はつかり"で若干能力不足気味であったため、これを増加し、機関冷却水の温度が高くなると、樅関を止めることなくアイドル運転とするように変更し、このための標示装置も追加1した。各車連結用のホロば、"はつかり"の内外二重式をやめ、外ホロを廃止した。またキロ80のシートラジオも廃止した。台車には"はつかり"'よりも更に制動距離を短縮するためディスクブレーキを採用し床下各機器には"はっかり"とほぽ同様な耐寒設備をほどこしてあるが、大阪から九州方面に行く暖地向のものには、機関下部オオイ・放熱器オオイ・笛シャツタ装置、・スノープローなどは取付けていない。この特愈形は7月から8月にかけて編成が落成し、向日町区に78両、尾久区に34両、五稜郭区に15両配属されることになっている。
交通技術 昭和36年6月号から引用

その後の気動車特急を代表する顔となるキハ82として落成することとなりました。
これらの車両は、10月の改正でしたが、7月から8月にかけて順次落成しました。

そこで、キハ82を先頭とする新しい80系気動車では、徹底的な走り込みが行われたそうです。
実際のダイヤに沿って、大阪~青森まで往復したそうですが、帰区すると幾つかのエンジンが停止した状態なんて事は当たり前で、それを徹夜で修理して翌日の試験に備えたと言われています。

また続きは書きたいと思います。

続く

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by blackcat_kat | 2018-02-25 23:47 | 気動車


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