鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話

blackcatk.exblog.jp
ブログトップ
2017年 09月 06日

昼間はのんびり日向ぼっこ、サヤ420

昭和39年新幹線が東京~大阪間に開業し、それまで東海道線の華であった151系電車は一斉に西下し、一部車両は上越線「とき」増発用に残された他は、西下して向日町運転所に配属になりました。
そのうち、特急つばめ(新大阪~博多)間で運転されることとなったのですが、151系は当然のことながら直流電車なので直接博多まで自力で走ることが出来ません。
そこで、下記の4案が考えられたそうです。

  1. 151系を現行交直流電車と同様な方式の交流直流両用電車に改造
  2. 交流区間での補機電源をサシ151形に搭載
  3. 交流区間での全編成分の補機電源容量を持つ電源車を新製
  4. 交流区間での全編成分の補機電源容量を持つ交直流電気機関車を新製

当初は、151系を交直流電車に改造する予定だったそうで、当時の国鉄部内誌(交通技術8月号)を参照しますと、151両のうち120両を使用し、31両でひとまず九州乗入させながら、順次改造していくと言った記事が出ています。
a0091267_17160815.jpg

実際に1案は手戻り工事が多くて、改造期間も長期(約8か月)を要することから現実的とは言えず、481系特急電車も製作されていたため、乗入期間は限定的になることから、151系の補機類への電源を確保することを主な目的とした電源車を投入することとなり、モハ420からモーターなど走行関係機器を設けず、平滑リアクトルや電動発電機(20KVA)のものを床上に装備したサヤ420と呼ばれる電源車を3両製作することとし、下関~門司間はEF30、門司~博多間はED73がけん引することになりました。
この時に改造された151系は6編成ですが、サヤ420の運用区間は、下関~門司間でしたので2編成仕様の1両予備として使われたようです。
a0091267_19332776.jpg
「つばめ」は20:24門司駅に到着 「はと」はが見えませんが,21:34 門司着です。
a0091267_19334685.jpg
「はと」は、明朝7:10 博多発、「つばめ」は8:45 博多発
時刻表では綴じ目付近なので読めませんが・・・。

列車は、朝・夕に偏っているため、昼間は2両並んで日向ぼっこしていたそうです。(^^♪

サヤ420の特徴
a0091267_19392481.jpg
鉄道ピクトリアル 19859月号から引用

サヤ420の使用は当初から1年程度と想定されていたため、内装を含めて殆ど近郊型電車として製作され、実際に座席まで設けられていました。
ただし、出入り口付近の通路を中心にMGや元空気だめ、平滑リアクトルが設置されていました。
a0091267_19164065.jpg
平滑リアクトル

交直流の切り替えは機関車からの指令で自動で行えるようになっていましたが、整備性を高めるため、単独で運転整備が出来るように車端に簡易操作盤が設けられていました。
下の写真が、簡易操作盤、運転は行わないのでマスコン等は当然のことながらありません。
a0091267_17505736.jpg
さらに、鉄道ピクトリアルの1985年9月号の401系421系特集で、サヤ420の機器配置図などが出ているのですが、床上にMG(MH97-DM61 20kVA)のMG、補機電源用平滑リアクトル(整流した交流をきれいな直流にするための装置)等も設けられていました。
a0091267_19391261.jpg
なお、この電源車から直接機関車並びに、151系電車と直接通話ができるように電話器が設けられていたそうで、このサヤ420にも乗務員が乗務するようになっていたと言われています。
a0091267_19393828.jpg
鉄道ピクトリアル 19859月号から引用
151系電車の改造。
151系電車に対しても最低限の改造が施され、スカートの左右共に大きく切り欠きが設けられ、向かって右側に制御用、左側には補助高圧用のジャンパ栓受けを付けるとともに、連結器カバーも外され自動連結器がむき出しとなり、さらに元空気だめ管及びブレーキ管の空気ホースが吊り下げられて、東海道本線を優雅に走っていた頃のイメージとは大きく異なる外観となってしまいました。
実際の電車側の電源は、サヤ420から +・- 2本の高圧ジャンパー線から供給されることで電車側のMGやCPを起動させており、直流区間では自力で走るため、マイナスをレールと接地できるように回路が工夫されていたそうです。
機関車の改造
機関車側はEF30は重連総括制御機能を元々持っていたため、サヤ420との運用ではジャンパ線の運用変更などで対応可能であったそうで最小限の改造で済みましたが、ED73は、元々非重連の貨物用機関車であったため、大幅な改造が必要になったそうで、151系電車への補助回路用引き通しとサヤ420形の非常パンタグラフ下げ回路を装備することとし、15~22の8両が専用機に指定されました、逆にEF30は量産機若番の2~8の7両が改造されました。
余談ですが、ED73はプレート周りを黄色で囲みアクセントになっていたそうです。

a0091267_19150961.jpg
画像はイメージです。
a0091267_19440445.jpg
九州鉄道記念館に保存されているED72 ED73は貨物専用機で中間車が無い分車長が短かったが基本的なイメージは72と同じでした。




[PR]

# by blackcat_kat | 2017-09-06 19:38 | 電車
2017年 08月 23日

挫折した試作車・・・キハ60

皆さまこんばんは、本日もしばしお付き合いください。
今回取り上げるのは、昭和34年度に試作車として3両が製作され昭和35年1月末に誕生したキハ60及びキロ60を取り上げてい見ようと思います。

新たに開発が急がれた気動車エンジン

すでに、気動車用エンジンとしてDMH17エンジンが標準エンジンとして使われていましたが、改良を図って出力を上げたとはいえ、180PSはあまりにも非力であり、優等列車等に使おうと思うと自ずとエンジンの数を増やさなくてはならず経済的ではないため、大出力エンジンの開発が急がれていました。

機関車のエンジンを気動車に

キハ60に搭載されたエンジンは戦前の電気式気動車キハ43000に搭載されたDMF31Hと呼ばれるエンジンがベースで、DMF31H型エンジンは戦後、DD13用エンジンとして縦型エンジンとしたうえで、過給機の搭載で出力を370PSとして実用化されました。その後改良されて500PSまで出力が向上していました。
a0091267_23290410.jpg
DD13形 画像Wikipedia

キハ60はこのDD13で採用されていたDMF31系エンジンを再び横型に設計変更して水平として出力も400PSに下げたものでした。
ただ、ここでの失敗はキハ81でも繰り返されることとなるのですが、それは水平にしたことでエンジンの潤滑が思うように行かなかったと言われています。
なお、昭和41年に試作されるキハ90及びキハ91で試作されたDMF15HSA及びそれを12気筒化したDML30系エンジンはDMH17系エンジンをベースとしており、キハ60系のエンジンの発展型ではありません。
最高速度は設計上は135㎞/hまで可能だったそうで、最高速度は110km/hの営業運転速度を目指していたそうです。
a0091267_23391823.png
キハ60 鉄道技術昭和35年3月号から引用
新機軸が導入された意欲的な気動車


さて、最初に気動車の外観的特徴ですが。
同時期のキハ55形気動車と似ていますが、運転台横の扉が、その後のクハ451やクハ471にも見られたプラグドアが採用されていました。これは、車体強度の関係もあったのではないかと思われます。
また、外観からは判りにくいのですが、同時期に制作されたキロ60は防音対策として二重窓になっていました。(固定窓であり、冷房装置の設置も検討されていたという記述もあります。)
a0091267_23414447.png
キロ60 鉄道技術昭和35年3月号から引用
また、外観からは判りませんが、ディスクブレーキの採用や2軸駆動等、動力を効率的に伝える工夫がなされていました。
また、151系電車で見られたように浮き床構造が採用され防音性も配慮されていました。(キハ60-2及びキロ60-1のみ)


特急気動車にも引き継がれた技術

御殿場線・中央本線で試用された後に、エンジン換装
しかし、結果は散々だったようで、エンジンとトルクコンバーターの細やかな制御が出来ず昭和37年には早々とDMH17エンジンに積み替えられてしまいました。
a0091267_23553725.jpg
ディスクブレーキは、キハ60系の台車で開発されたタイプが採用された 撮影 加藤好啓

しかしこの時に開発された、ディスクブレーキなどはその後のキハ81系等で採用されたほか、2軸駆動の考え方はキハ65やキハ181で採用されることとなった訳で、失敗作とはいえその後の車両に与えた影響は大きかったと言えましょう。


[PR]

# by blackcat_kat | 2017-08-23 23:59 | 気動車
2017年 08月 12日

DF50形電気式機関車の話

現在機関車を新規に製造し保有しているのは、JR貨物だけであり、ディーゼル機関車もDD51の老朽化のためDF200形が新規に製造されています。
DF200形は電気式と呼ばれる方式で、従来の液体式と比べると重い機関車で実質的な通貨トン数が増えてJR北海道にしてみれば線路破壊量がDD51よりも大きくなって保守費が増大していると言った話も聞いたことがあります。
さて、JR貨物が電気式を採用する背景として考えられるのは、機関車の部品共用化が大きいのかなと考えております。
今後本格的な人口減などを考慮していく必要がある中で鉄道会社が出した答えだと思います。
a0091267_07494979.jpg
さて、今回はDF200などの新型の電気式機関車の話ではなく、今から半世紀以上前に製造されたDF50形電気機関車のお話をさせていただこうと思います。
DF50形機関車誕生
DF50形機関車は、北陸本線に投入されたDD50形の改良版として計画され,、昭和32年に試作車が、その後非電化区間の無煙化のエースとして昭和38年までに138両が増備されました。
機関出力1060PS(MAN型(500番台)は1200PS)であり、機関車の出力としては決して大きなものではありませんでしたが、高速性能ではC57相当、牽引力ではD51相当と言われていました。
DF50形設計当時は、高出力の液体変速機が開発されていなかったため、電気式が採用されました。
ただ、最近のDF200形のようなVVVF方式ではなく、発電機で発電した電力をそのままモーターに流してしまうという方式であり、Wikipediaを参照しますと、「「差動界磁付励磁機式発電機」が用いられた。これによって、主電動機に負荷がかかって回路電流が増大すると、自動的に発電機の界磁が弱まり、発電電圧が低下して、定出力特性が得られた。
と書かれております、そこで「差動界磁」と何かを調べていきますと、参考になるサイトがありましたので、そこから少し引用させていただこうと思います。

このサイトの中で書かれている、頭を説明のために引用させていただきますと
a0091267_09380223.png
差動複巻直流電動機というのは、磁束(磁力の強さ)を打ち消しあうもので最近では殆ど使われない技術だそうです。
その原因としては、回転速度が不安定になりやすく,始動トルクも弱いからという理由だそうで、逆にいえば、自動的にそうなってくれる方が発電機側としては都合が良いということになるのかもしれません。
余談ですが、磁束が補完しあうように働く場合は「和動複巻」というそうです。

ということで、難しい説明はこの程度としておき、実際の運転ではDF50形機関車は、電車などでよく使われる弱め界磁が多用され、最高30%まで弱める(界磁とは直流モーターの場合外側の磁石と思えば理解しやすいでしょう。)ことが出来たそうで、定格速度17km/hでしたが、旅客車などでは90㎞/h近くまで出せたようです。
a0091267_10122678.png
今から考えれば、蒸気機関車よりも加速は早かったとはいえ、電車などと比べると緩慢な速度でありやはり時代を感じてしまいますね。
今回は、正直私自身も色々と改めて勉強したのですが、まだまだ勉強不足だなぁという思いを新たにしましたのでさらに精進を重ねていく所存でございます。
間違い等があればご指摘いただければ幸いです。



[PR]

# by blackcat_kat | 2017-08-12 10:16 | ディゼル機関車
2017年 07月 10日

時代の狭間に咲いた花、キハ391系ガスタービン車

キハ391系という車両をご存じだろうか?
この形式を聞いてピンと来る方はかなりの通の方ですね。
国鉄の非電化区間での高速化をにらみ、大宮工場で試作された車両であり、その基礎研究は1967年(昭和42年)に日本車両工業協会(現:日本鉄道車輌工業会)が運輸省(現:国土交通省)から援助を受けて開発を始めたガスタービン機関によるターボトレインがその端緒と言われています。
この研究では、キハ07型気動車にガスタービンエンジンを搭載して基礎研究が行われました。
a0091267_21123119.jpg
鉄道ピクトリアル昭和47年(1972)6月号から引用

国鉄では、在来線の高速化が問題となり、昭和43年(1968)の第6回列車速度調査委員会で在来線特急の速度を最高130㎞/h、曲線通過速度は+20㎞/h以上を目標として計画されることとなり、電車では591系による振子電車を投入するとともに非電化区間に在っては391系による速度向上が昭和45年(1970)から開発に取り組み昭和47年に完成させたものでした。
なお、エンジンは当初、床下に設ける予定だったそうですが、最終的には床上に設置することとなったそうです。
なお、特徴として特殊な振子方式を採用していたそうで、変則的な連接式台車を採用しており、車体の1/3の部分にタービン期間を積んだ動力車がのっかり。大半の荷重を運転席がある側で支える方式となっていました。

米子駅構内で休車中の391系

鉄道ピクトリアルを参照しますと、下記の通り伯備線並びに予讃線に投入した場合の経済比較が載せられています。
a0091267_21372264.jpg
鉄道ピクトリアル昭和47年(1972)6月号から引用

昭和42年から実施された、日本車両工業協会(現:日本鉄道車輌工業会)の基礎研究では台上試験の後に下記のような試作車を作成して実際に磐越西線を走っています。
こちらも、当時の雑誌から引用させていただこうと思います。
a0091267_21571387.jpg
走行試験などを経た結果は、航空機用エンジンを鉄道に転用可能と言う結論に達したようで、今度は試作車を作って走らせてみることとなりそこで計画されたのがキハ391系ガスタービン気動車でした。

当時の非電化ローカル線は線路も脆弱で勾配も多く急曲線の連続と言う区間も多いことから下記のような方針が立てられたそうです。
1)軌道への影響を減らすため、極力軽量化し、軸重を小さくする。
2)曲線部における速度向上と転覆に対する安全性向上のため重心を低くする。
3)横風の影響を減らすため、車体全高を下げる。
4)曲線部における車輪軸圧を下げるため、台車は芯皿移動方式とする。
5)乗り心地改善のため、車体を振り子式とする。
6)軽量化の手段としてガスタービンを採用する。

と書かれています。

さらに車体についてですが、試験編成は3両で1編成となっており中間車両が動力車なのですが、この中間車は振子機能を持たないと特殊な構造となっていました。

中間車はタービンが車内に搭載されていました、画像右側の台車の構造に注目、

車輪の車体の重心を下げるために、両端の先頭車は800mm車輪を採用し、床面高さを920mmと大変低く設定されていたのも特徴でした。
従来の気動車が概ね1.3m程度の高さですから車体床高さが40cmも低いことになります。
実際、米子駅に留置されていた時に車内に入ったことがありますが(もうさすがに30年以上前の話ですから時効ですよね。苦笑)かなり床が低いなぁというのが正直な感想でした。

完成後は、川越線、伯備線、田沢湖線で試験が行われましたが、在来のディーゼル機関と比べてトルクが低く、加速は緩慢でその上騒音は大きい、消音機の改良などを行ったようですが、騒音だけはクリアできなかったと言われています。

その後は、石油ショックによる燃料費の高騰や、騒音問題などから量産には至らず長らく放置されることとなりました。

現在は解体されて先頭部分だけが保存されているとのことであるが貴重な車体だけに保存して欲しかったと思います。
[PR]

# by blackcat_kat | 2017-07-10 22:08 | 気動車
2017年 05月 20日

ワンハンドルマスコンのお話 手前?それとも押し込むの?

久々に投稿させていただこうと思います。
電車では最近、ワンハンドルマスコンも増えています。
画像は阪急の9300系ですが、このワンハンドルマスコンを本格的に採用したのは1969年に誕生した東急8000系電車が最初と言えそうです。
a0091267_11075309.jpg
撮影 blackcat

このワンハンドル式の歴史は古く、1930年代には既に開発され、遅くとも1940年後半までにはニューヨーク、シカゴ、ボストン市などの地下鉄および高架鉄道等で、ワンハンドルが採用(現在の横型とは異なり縦形だったそうです。

ワンハンドル式は日本だけでなく国外でも採用されているのですが、ヨーロッパやアメリカではその操作方法に相違があるそうです。

それは、ブレーキをかけるときに馬の手綱を引く要領で手前に引くのか、それとも現在日本で採用されているように、前のめりに押すのかということです。
a0091267_11075364.jpg
画像 Wikipwdia

日本でも東急が8000系に採用する際にはその辺で賛否両論あったそうで、当時の運輸省の見解としてはどちらでもよいが一度決たらめ安全面の問題であるから変えてはならないと言われたそうで、最終的には手前で力行(加速)押すと減速(最大まで押し込むと非常ブレーキ)がかかる仕組みに決定されました。
これはワンハンドル式に限らず、横軸式の制御装置では統一された方式となっています。
a0091267_11075387.jpg
画像 Wikipwdia

なお、ワンハンドル式ではありませんが、横軸式としては昭和41年に試作されたキハ90が最初であり、右側がブレーキ、左側がマスコンとなっており、当時は国鉄の研究所の一つであった鉄道労働科学研究所にて研究が進められており、人間工学的観点から失神した場合などは前のめりになることからブレーキレバーを前に倒すようにしておくことが提言されたようで、キハ91、キハ181、その後試作されたクモハ591も同様の運転台でした、量産型の381系では従来の方式に変更になりましたが。)
a0091267_11152015.jpg
逆に、馬車鉄道から発展したヨーロッパ等の鉄道では、ワンハンドル式のマスコンは手前に引いてブレーキ、押して加速が一般的であり日本と全く異なっています。

近年はJRで廃車になった車両が発展途上国等に譲渡される場合が多いのですが、ここで電車の制御方式が異なる。(真逆)ということで、戸惑が有ったようです。
ただ、譲渡先のインドネシアでも日本式の方が理にかなっていると言われているそうです。

[PR]

# by blackcat_kat | 2017-05-20 11:19 | 電車
2017年 04月 29日

アンヒビアン・バス・・・世にも奇妙なバスのお話

JR北海道が開発を続けていたDMVですが、阿佐海岸鉄道で導入を進める計画があるとのことであり、これが実用化されればローカル線の在り方を変えることが出来るかもしれませんね。

a0091267_15541338.png
[実はこの方式は、昭和30年代(1960年代)に既にドイツで実用化されており、運転席側に台車を付けて後部車両は、タイヤが直接レールと接する方式だったそうで、DMVに限りなく近い車両であったそうです。」
a0091267_12473834.jpg
当時の記事 公益財団法人 交通協力会 鉄道技術昭和36年11月号から引用

この情報を受けて、日本でも同じようにローカル線輸送の切り札としてこの鉄・道両用バスが計画されました。
それがこちら、
a0091267_15540579.png
バスの両端に台車が乗っかる、不思議なスタイルです。
ジャッキでバスを持ち上げ、両端に台車を挟み込む方式と言われており、台車自体は路面電車並ので66cmの車輪を採用していました。
また、ステップを装備しており、ドアと連動してせり出したそうです。
特長としては、バスに余分な車輪等の死荷重を持たないことでした。
その反面、車をリフトで載せる手間や、ブレーキホースの装着などの余分な作業があるため、5分程度で切り替えできると計画では書かれていましたが本当に5分で行えたのか、いささか疑問です。
a0091267_12553969.jpg
出入り台付近にステップが設けられている様子が伺えます。
バスの前から出ているホースはブレーキ用ホースで、先頭台車の2軸目が動力台車となる。
以下の図を参照
a0091267_12553832.png
真ん中に突き出す軸が動力伝達用、バスのドライブシャフトと繋がるらしい。

a0091267_12553810.png
バスの車体はこのピンを通じて台車と連結される


計画では、ローカル線での運用を計画するとして23線程候補があったそうですが、実際には実用化されずに終わっています。
a0091267_12553929.png
車内はバスそのものとなっています。
a0091267_12553837.jpg
鉄道の場合左右いずれにもホームがあるため、バス用非常口も出入り台として使われることになっている。

以下に、当時の仕様書を基に書き出してみました。
a0091267_12553773.png
画像は、公益財団法人 交通協力会 電子図書館 国鉄線8月号から引用させていただきました。

こちらも併せてお読みくださいませ。 





[PR]

# by blackcat_kat | 2017-04-29 13:13 | 気動車
2017年 04月 23日

冷凍コンテナの話

皆さまこんばんは、3週間近く放置してしま申し訳ございません。
本日は、昭和42年に試作された冷蔵コンテナのお話をさせていただこうとと思います。

国鉄時代に試作されていたクールコンテナが有ったそうです。

国鉄線昭和42年10月号の記事から引用させていただきます
a0091267_21364395.png
試作品のR91形コンテナ
元々冷蔵車は誕生以来、氷式もしくはドライアイス式で使われていましたが、昭和30年代後半から、コールドチェーンの考え方が浸透したことから、国鉄でも昭和37年にはレ90(ディーゼルエンジンで発電機を駆動して冷凍機を動かす電気式とと、ディーゼルエンジンで直接冷凍機を動かす直結式が試作されました。
a0091267_21392947.jpg
画像は、100年の国鉄車両 交友社から引用
この冷蔵車は、マイナス5度~20度の間で一定の温度に調整できるように設計されていたそうで、自動車(トラック)ではこうした冷凍システムが装備された車が増えつつあった時期であり、アメリカでも半ばそうした輸送は常識になっていたそうです。

5tコンテナによる冷凍コンテナを試作

国鉄としても、技術課題として、昭和42年に2両の冷凍コンテナが試作されたそうです。

昭和42年8月上旬には試作車のコンテナが完成し、各種試験を実施されたと記録されています。
コンテナの概要は、5トンコンテナに国産冷凍機を動力源として取り付けることとしたもので、その仕様は下記のようなものでした。
ア)幅2300mm、高さ2350mm、長さ3240mmの中で着脱可能な動力源を含む冷凍機にユニットを取り付ける
イ)冷凍機を付けることによって減少する内容積が出来るだけ少ないことにする(R10形の11㎡に比して10㎡弱)
ウ)狭いコンテナ内の一隅から冷風が吹き出し均一に分散する
エ)コンテナの重心位置と荷役機械の関係(からの場合は350mmユニット側に重心が移るため)
オ)道路運送中にデイゼル機関の排気処理や騒音を出来るだけ少なくする工夫
a0091267_21343249.png
取扱面について
詳細な寸法は書かれているのですが、冷凍装置は「独立ユニット」とのみ書かれており直接式だと思われます。
冷凍能力は外気温40℃で貨物室内の温度をマイナス20℃に保持でき。72時間運転が可能(予冷したものを積載することを前提)となっています。
なお、エンジンの異常、過熱等の場合はエンジンが自動停止するように設計されており、異常表示灯が点灯するようになっていました。

ただ、こうして作られた試作コンテナですが結局国鉄としては冷蔵コンテナに関しては国鉄が冷凍貨物輸送自体にあまり興味を示さなくなってしまったのか結局量産されることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、仮に国鉄がコールドチェーンの流通システムを国鉄が中心になって構築していれば鉄道コンテナによる鉄道輸送はもっと発展していたかもしれません。

取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era




[PR]

# by blackcat_kat | 2017-04-23 21:44 | 貨車
2017年 04月 05日

国鉄時代に開発された新幹線自動分割・併合システム

みなさんこんばんは、久しぶりに投稿させていただこうと思います。
山形新幹線「つばさ」や秋田新幹線「こまち」を連結するためにE5系とE6系が連結して運転されることは当たり前の風景になりましたが、この技術は国鉄時代に開発されたもので、昭和60年から研究されていたようです。
a0091267_21485180.jpg
東京駅にて

元々、この技術は山陽新幹線の段落ち輸送に対応するためのもので16両で運転しても博多まで同じ編成では輸送力過剰になってしまいます。
そうかといって、本数で調整するとレダイヤに柔軟性が取れなくなるため、8+8で東京を出発し、新大阪等で分割することを前提で考えられたのがこのシステムです。

下図を見ていた概要を当時に鉄総ジャーナルの記事を参照しながら簡単に記してみますと。
1)列車の連結は一旦停止を行わず連結させることとすると書かれていますが、これは走行中に連結するわけではありません、連結までに何度も停止と進行を繰り返す在来線のような方式ではなく、機械ということです。
2)停車中の車両に後方から連結する速度は1㎞/h以下とする。
a0091267_21401638.png
鉄道技術 昭和60年7月号から引用
3)分割併合で電気連結器も含む連結器と光前頭カバーの自動開閉装置の開発(実際には連結器部分だけの開閉装置となりました、)
a0091267_21414858.jpg
鉄道ジャーナル RAILWAY TOPICSの記事から引用

4)それと関連してATCの改修(駅への進入などでかなり長い距離から減速を伴っていたのでこれを少しでも解消するようにパターンを改修する、)
a0091267_21343909.png
鉄道技術 昭和61年7月号から引用

と言った点も同時に開発されることとなりました。

この開発は昭和62年の分割民営化までに間に合わせることが出来て、実際にJR西でも2編成を連結して多客時などに走ったそうですが、途中駅での分割・併合は無かったようにきおくしています。

これは、JR東海が定員の異なる車両を導入することを嫌ったことも原因ではないかと思っています。
結局この自動連結装置の技術は、JR東日本が自社の新幹線での分割併合のシステムの中に取り込んで現在に至っています。
当時の鉄道御ピクトリアルの資料などを見ると、0系で貫通ドアを新たに設置させたり、ユニークなアイデァが書かれています。

a0091267_21440024.jpg
鉄道ジャーナル RAILWAY TOPICSの記事から引用

鉄道・飛行機歴史



[PR]

# by blackcat_kat | 2017-04-05 21:49 | 電車
2017年 03月 23日

貨車ブレーキのお話、足ブレーキのお話。

皆さまこんばんは、本当に久しぶりに更新させていただきます。画像は、京都の鉄道博物館に保存展示されている、ワム車の足ブレーキ部分をアップで撮影したものです。
a0091267_20354511.jpg
こうした、古い2軸貨車自体が殆ど廃車されてしまいましたので若い方ご存じない方も多いかと思いますが、1984年(昭和59年)まではこうした貨車が一般的であり、操車場と呼ばれる貨物の仕分けをするところでは数多くのこうした貨車を入替するために連結手が貨車に飛び乗ってブレーキをかけていたものでした。
a0091267_20423429.jpg
天鉄局のアルバムから

画像では判り難いですが、貨車に乗ってブレーキをかけている図になります。
ただ、このブレーキの装置が昭和27年頃までは上記の写真のような構造ではなかったそうで、ブレーキを踏んでもシューは固定せず、ピンを差し込む構造になっていたそうです。
a0091267_20451724.jpg
画像は当時の改良型の写真(第1図)(ブレーキイージー8形)

実際には、走行中に作業をしていたため、熟練を要するとともに触車事故なども多く、問題であったと昭和28年の国鉄線で出てきます。
a0091267_21072140.jpg
下記は当時の国鉄線昭和28年2月号に掲載されていた記事から引用させていただきます。
この記事によりますと、

一部本文から抜粋
簡易側ブレーキの取付
 従来からおこなわれている貨車のピン止式ブレーキについては、テコから足をすべらせたり、あるいは
いはピンをさず時尻を突き出したために傷害を受けるというような面、又は貨車の転動事政が各地に発生するといった面からこれが対策について研究されていた・・・一部略
改良された簡易側ブレーキは第一図に見られる通りである.本機の取付により、従来はビンの差し込みにかなりぶ熟練を嬰したのに比べ、新規採用の連結手も直ちに仕事につけうる点、傷害事故防止に役立つ点、制動効果が大きく.制動時分、制動距離が短縮される。

a0091267_20492266.jpg
出典 公益財団法人 交通協力会 国鉄線昭和28年 2月号から引用

a0091267_20270840.jpg
京都交通博物館で保存展示されているヨ50000緩急車

併せてこちらもご覧くださいませ。

http://blogs.yahoo.co.jp/blackcat_kat_2014/14320098.html

[PR]

# by blackcat_kat | 2017-03-23 21:10 | 貨車
2017年 02月 12日

12系+20系 混結時代?のお話

こんばんは、本日も20系客車のお話を少しだけさせていただこうと思います。
20系客車と言えば昭和33年に「特急あさかぜ」用としてデビュー、特急電車151系共々驚きの目をもって迎えられました。
a0091267_22050792.jpg
20系客車

20系客車はその後九州特急の充実とともに増備され、最終的に昭和45年まで製造が続けられましたが、1969年【昭和42年】には全国初の寝台・座席兼用特急電車581系が誕生し、その広いベッドと比較して52cmのベッドはさすがに見劣りがするということで1971年【昭和46年】既に量産が始まっていた12系客車をベースに寝台車が開発され14系寝台車として床下にエンジンを持つスハネフ14・中間車のオハネ14が誕生しました。
1972年【昭和47】年からは量産も始まりますが、
その翌1973年【昭和48年】には北陸トンネル火災事故の教訓から再び集中電源方式に戻され24系が製造されることとなりました。
なお、24系客車は581系電車の中・上段と同じ70cmの寝台幅となったことでサービスの向上が図られることとなりました。

そして、昭和51年には「特急つるぎ」が20系から24系25形【2段寝台】に置換えられることとなり、余剰となった20系はそのまま急行銀河の置換えに充当されることとなりました。

それまで、オロネ10・オハネ12等の旧形客車を使った編成から同じころに製造された車両とはいえ、特急客車が充当されることになったのです。
この時は、編成丸ごとでしたので、電源車に改造下以外はそのまま編成が充当されました。)
a0091267_22103025.jpg
その後も、「急行だいせん」等も編成単位で置き換えられ、特に「急行だいせん」では、ナロネ21の寝台を撤去してナハ21と言う新形式に改造した車両を誕生させましたが、当時の急行夜行列車の多くは座席が主体で寝台車は数両繋いでいるパターンの方が多く、こうした夜行急行列車を置き換えるため、12系客車と20系客車を混結させることとなりました。
a0091267_22425407.jpg
ただ、ここで問題が発生したのです。
それは、20系と12系客車ではジャンパー連結器などもさることながら、もっと大きな問題がありました。
それは、電圧の問題でした。
  1. 電源を受ける側の20系客車は3相600Vの交流電源、電源供給をする12系客車は3相440Vと電圧が違ったのです。
  2. 12系客車は自動ドアですが、20系客車はまさかの手動式でした。
    当時はボーイ(後の車掌補(乗客案内))が乗務しており、出発するとドアを手で閉めていたうえ、走行中は自動的にドアが施錠される(車のオートロックのような機能)ようになっていましたが、急行列車として使う場合は12系の座席車に合わせて20系側もドアの開閉を自動で行えるようにする必要がありました。
  3. 20系客車は800mmの車輪を採用しており、床面高さも12系とは異なっていたため貫通幌並びに渡り板も改造する必要が有ったと言われています。
  4. 公害問題もクローズアップされており、トイレのタンク取り付けなども併せて工事が行われました。
1)の問題に関しては、20系客車の床下に変圧器を取り付ける
2)に関しては自動ドア開閉装置を20系にも設置、ナハネフ20からも操作できるように改造
3)桟板の改造などが行う。
4) トイレにも、タンク等も取り付けたため重量がナ級=27.5t以上32.5t未満。で収まらず実際には35tちかくになったそうです。ただし、長く使う予定もなかったため、改形式にはせず、△マークを番号の前に付けて運用することとなりました。
a0091267_22425431.jpg


[PR]

# by blackcat_kat | 2017-02-12 15:11 | 客車