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日本国有鉄道研究家 blackcatの鉄道技術昔話

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2018年 03月 16日

気動車発達史 17 キハ35形通勤形気動車の誕生

本日から、キハ35形通勤気動車のお話をさせていただこうと思います。
キハ35形気動車と、便所の設備を撤去したキハ36、両運転台のキハ30があり、寒冷地向けの500番台や、オールステンレス車体として試作された900番台があります。

通勤用気動車の誕生

さて、キハ35形気動車が誕生した背景ですが、通勤対策が大幅に遅れていることが原因でした、その辺の事情を天王寺鉄道管理局三十年写真史に求めてみますと、下記のような記述が見られました。
全文引用させていただきます。
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昭和31年当時の関西線【昭和31年の時刻表から)
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昭和37年12月時刻表から

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区間運転部分だけを拡大してみました。

関西本線DC化
昭和34年、監査委員会から、低調であった関西線の経営のあり方について指摘を受け。これに基づいた同線の大規模な輸送改善並びに合理化が実施されることになったが,これに伴い亀山・湊町間115.3キロの全面DC化が実現した。
まず36年12月奈良・湊町間にDC26両を投入,客車のDC置換えを実施した。
ついでDC37両を投入してDC化区間を亀山まで延長、これに伴い,亀山・湊町間オールDC化が完了。同時に奈良・湊町間にDCの快速が誕生するなどの大幅な輸送改善が実現した。
と書かれています。

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出発式の様子、奈良駅 天鉄局30年史アルバムから。

気動車史上初の通勤形

もちろん、当初から国鉄本社としては関西線のみの専用形式というよりも、千葉地区などでも投入を予定したいたようです。
最初の選定路線として、平坦区間が多く、気動車の置換えで効果が高いところという視点から選んだと言われています。
実際、奈良~湊町間は、大阪のベッドタウンとして戦後急激に発展していました。
近鉄は電化されていたにも関わらず、当時の関西線は、蒸気機関車牽引の客車列車が主力で、客車は老朽化し、乗降扉は走行中の施錠もできない手動式で、昭和初期と大差ない前時代的な旅客サービス水準でした。
列車本数(片道)も日中は1時間に1~ 2本、朝ラッシュ時でも1時間に4~5本程度と、並行する近鉄奈良線や大阪線と比べるまでも無い状態でした。
そこで、この区間をDC化することで近代化すると共に旅客輸送の需要に応えることとして開発されたのが、キハ35形気動車でした。

電車とは異なる特徴有るスタイルに
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キハ35の室内写真【交通技術昭和36年12月から引用】

この気動車の特徴は、101系通勤電車をその範に取るというものでしたが、全く電車のスタイルを踏襲するわけにはいきませんでした。
その一つが、車体に設けられたステップでした。
元々客車時代のホームは高さ760mm、電車専用区間1100mmm、電車・客車併用区間920mmとなっていました。
田舎の駅では極端に低いホーム【気動車の台車やエンジンが見える】に遭遇することがありますが、これは客車時代のホームの扛上【かさ上げの意味】がなされていないからです。
そうしたホームが数多くありますから、従前の気動車同様、ステップは必須であり、それ故に外吊り3枚扉という独特のデザインが誕生したのです。
これは、ステップを設けなくてはならない反面、そうするとスペースがステップの分だけ圧迫されることになりますし、まして車体中央に1.3m幅の開口部(有効開口幅は1.2m)を設けて戸袋を設けると台枠の一部を切ることになり、台枠強度が低下することになりました。
また、車両の中央部に1.3mの開口部を設けるため車両の艤装スペースがその分狭くなります。
結果的に2エンジンを搭載することが不可能となってしまいました。
また、通勤用と言う性格上、この車では軸重増を考慮して車軸径を少し太くした他、いままでの液体式ディーゼル動車との混結運転も可能となっています。 
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車体は、戸袋の無い外吊り式の引き戸とされ、戸袋が無いためドアすぐ横の窓は開閉することが可能となりましたが、ドア開閉中に手や顔を出していると危険なため、ドア横の窓は下側も手が入るか入らないかの開口部であり、保護棒が下部に付いていたように記憶しています、車内に入ると101系のようなつり革の配置で、枕木と並行して並ぶつり革なども設置されていました。
異色だったのは、出入り口付近のパイプに灰皿が見受けられたことでしょうか。
また、通勤用気動車で有りながら、便所も設置されているなど、随所に電車とは異なる思想がありました。
なお、翌年の昭和37年には、トイレ無しのキハ36形が投入された他、寒冷地である弥彦線にも、キハ35形が投入され,同年9月12日から使用されました。
弥彦線に投入されたキハ35は500番台を冠する寒冷地仕様で、501~512の12両が越後弥彦線管理所に配置されたとされています。【当時は管理所制度がありました、(JR西などに見られる鉄道部に似た制度)】
ベンチレーターの押込式など寒冷地向けに仕様が一部変更されています。
ちなみに、弥彦線にキハ35が導入されたのは、吉田~東三条間の沿線に工場が多く朝ラッシュ時の混雑が激しいためであり、キハ17のロングシート化を新潟支社として提案したが、台枠強度の問題から不可となったことによるものでした。

続く
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併せてご覧ください


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by blackcat_kat | 2018-03-16 00:56 | 気動車


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